2020-11-09

京都大学16代総長、平澤 興先生

「平澤先生は、ホテルで藤尾氏を見るなり手を握り、「現代の覚者たち」から得た感動を尽きることなく述べられた。その間約1時間、藤尾氏の手は先生の手に握られたままだった」。

「先生の熱い思いが藤尾氏の全身に伝染し、強い感激に染め上げられた(平澤興一日一言「あとがき」より、一部抜粋)」。

1988年、「月刊致知」創刊10周年記念パーティー、「現代の覚者たち」が記念品として出版され、参加者に贈呈。平澤先生もパーティーに出席され、その翌日に「伝えたいことがあるので、ホテルまで来てもらえないか」と、致知出版社社長で編集長、藤尾氏に秘書から電話あり。

そして、藤尾氏がホテルで先生に会われたときの話が、上述「ホテルで藤尾氏を・・・」の文章です。昭和60年、藤尾秀昭社長38歳、平澤興先生85歳。藤尾氏が、初めて先生に会われた時のことです。

私は、2018年9月、東京での致知出版40周年記念講演会に出席しました。第3講で、藤尾氏が「致知の道―40年を歩みきて」の演題で講演され、安岡正篤、森信三、坂村真民、平澤興の4先生を紹介。その時、初めて平澤先生を知りました。

「人は単に年をとるだけではいけない。どこまでも成長しなければならぬ」が、その時に紹介された先生の箴言です。

東京から鶴岡に帰り、ネットで平澤先生の著書及び先生に関連する書を全て購入し、読み耽りました。それ以来、先生の生き方や考え方を学び続けています。

先生は、大正9年(1920年)京都帝国大学医学部に入学され、大学での勉強は、命がけでやろうと一大決心。

大学では、まず講義を聴き、第二に先生が示した外国の参考書を原書で読み、第三に、講義と参考書で十分考え、自分自身のノートを作る基本方針を策定。

しかし、大学では実験もあり、講義に出て原書を読んでノートを作るのは時間的に不可能。「自分にした約束ができぬようでは、人間に値するのか」と苦悩。そして、煩悶は神経衰弱、不眠症になり登校拒否。

この煩悶から命を断とうとして1年生の12月に故郷、新潟の寒村に帰省し、木枯らしが吹きすさぶ雪原を彷徨。その時、ベートーヴェンの救いの声がドイツ語で聞こえた。

ベートーヴェンは、20歳代で聴覚を失い、25歳の時に自らの命を断とうとした。

そして、ベートーヴェンは、自分に向かって、「勇気を出せ、たとえ肉体にいかなる弱点があろうとも、我が魂は、これに打ち勝たねばならぬ」。

「25歳だ、そうだ、もう25歳になったのだ。今年こそ男一人本物になるか、ならぬかを決めねばならぬ」と、叫んだそうです。

これは、ベートーヴェンのある日の日記の一節。「あのベートーヴェンにして、なおかつ然り。まして自分のごときぼんくらが迷うのも無理からんなあ」。そう諦めがついて、先生は、文字通り命がけの勉強を始めたとのことです。

そして、先生は20歳の元旦未明に起き、天地神明を拝して自らの人生の「座右の銘」を墨書。それを指針として生活されました。

その最後に、「進むべき 道は一筋、世のために いそぐべからず 誤魔かすべからず」と記されています。

「人生は、にこにこ顔の命がけ」、「生きるとは燃えることなり」、「生きよう今日も喜んで」。毎朝、起きた時や何かあった時に口ずさむ、平澤先生の3つの箴言です。

『愚かさの尊さ』(平澤 興 一日一言)

「若い頃は正直のところ、私自身も自らの間ぬけさ、要領の悪さにいや気がさしたりしたようなこともあった」。

「だが、年をとるほどに「いやいや、そうではない。お前に最も大事なのは、その間ぬけさだ。そのお人よしだ。そのうしろにあるまごころだ。もっともっと深く掘りに掘って、徹底的に頑張ることだ」。

「そんな内面からの声を聞き、「やはり、そうだ。愚かなままでいいのだ。真理の追究そのものに随順する徹底的な愚かさこそ、賢さなどよりはるかに尊いものなのだ」―そんな思いで今まで生きてきた」。

平澤先生、人としての間口の広さ、奥行きの深さ、味わいの深さを感じます。凄い先生です。