2022-12-31

母からの教えとその影響

「致知出版社」から、2020年に『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』、2022年に『生き方の教科書』が出版。2冊を読了し、かなりの方々が「母からの教え」を紹介されていました。


本年最後のブログは、その紹介も含め「母からの教えとその影響」について少し記したいと思います。

『仕事の教科書』の8月3日には、ものまねタレントのコロッケ(滝川広志)さんが、「「あおいくま」の教え」とのタイトルでお母さんの教えを紹介しています。

「いつの頃からか、我が家の柱には母の字で書かれた、黄ばんだ紙が貼られていました」。

「あせるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな」。

「子供の僕には意味が分からず、「あおいくま」と横に読んでいましたが、母は笑いながら「広志くん、このことばだけは覚えておきなさい。これを覚えておけば大丈夫だから」と教えてくれました」。

「それからというもの、僕は事あるごとにこの「あおいくま」を思い出し、これは心の支えになりました」。

滝川さんの家庭は裕福でなく、お金が必要なら自分で稼ぐことを姉さんと約束し、中学、高校は新聞配達をして家計を助けたとのこと。

「あおいくま」、簡単な教えですが、心に留めたい教えです。

また、巣鴨学園理事長の堀内さんは、『仕事の教科書』の12月4日に「一流の男の背景には必ず母親からの影響がある」とのタイトルで、以下のように記しています。

「私は、長く教育界にいますから、色々な人物を見てきました。大学時代からの学者との付き合いもありますが、一流の男の背中には必ず母親からの影響があります」。

「これは間違いない。みんな母親のことを言います」。

母親の影響は、大きいですね。子供を出産し、育児して、子供を育てた母親、父親はかなわない。

さらに、京セラやKDDIの創設者でJALを再生された稲盛さんも著書『ごてやん』で「私を支えた母の教え」に触れています。

「母の名前はキミという。私はこの母キミから、人として生きる上での大事なことを教わった。言葉で教わったわけではない」。

「私は多くの経験を通し、人として正しい生き方、人が生きる目的とは・・・など、自分なりの哲学を築いてきた。それを今は私自身の言葉として語っているが、重要な出発点は、まちがいなく幼児期にある」。

「私だけの話ではない。誰しもその人となりの基礎となるものは、幼児期に形成される。そして、その形成に最大の影響力を持つのは言うまでもなく親である」。

「私の場合も例外ではなく、とりわけ、大好きだった母の影響は、今も自分の中に大きく残る」。

「くり返すが、私に「人として正しく生きる」ことを最初に教え、また最大の先生となったのは母である。実家を離れてからも常に母の教えは私の中で生き続け、大きな支えとなっていた」。

生きる上での大事なことを言葉でなく示したお母さんとそれを学んだ稲盛さん、凄いです。

私も母親から生き方を学び、それは今の私に多くの影響を与えています。そして、母親が、子供を100%信頼しての言動は、子供心に凄いと感じたことが何回かありました。そして、母の期待に応えようと思いました。

「母からの教えとその影響」、本年最後のブログです。

皆さん、佳い年をお迎え下さい。来年もよろしくお願いします。

『婦徳』(安岡正篤:活学一日 一言)

「現代の人々は婦徳(ふとく)ということについて改めて深い反省を要すると思う」。

「己を忘れて人を思うこまやかな情愛、そこから閃く叡智の光、ゆきとどく注意、つつましく善言に耳傾ける謙虚、愛する者の為に厭わぬ苦労、洗練されたる教養、是の如き婦徳を持つ妻よ、母よ、姉妹よ」。

「是れは日本民族が世界より羨(うらや)まれる禍福であろう」。 

『婦徳』、凄いと感じます。

2022-12-29

『精撰 尋常小學修身書』とその思い出

年末は、恒例の大掃除です。我が書斎の大掃除中に8冊の『親子で読みたい 精撰 尋常小學修身書』(八木秀次監修、小学館文庫)を発見。本日は、この書と「修身」について再掲も含め、少し記します。

「ワシントンは、にわへあそびに出て、父のだいじにしていた、さくらの木を切りたおしました。「これはだれが切った」と父にたずねられた時、「私が切りました」と、かくさずに答えてわびました」。

「父はワシントンのしょうじきなことをよろこびました。これはワシントンの六さいの時のことでありました」。

これは、明治43年の尋常小学校修身教科書に掲載された1年生向け読本の小見出し、「しょうじき」の記述です。

最終学歴、尋常小学校卒の祖父母が、父や母をどのように育て、人としての生き方を示したのか考えたことがあります。

母は生前、「自分の子供のころ、祖母から厳しく日々の生活を躾られ、それが今に通じている」と話していました。農業を生業としていた祖父母は、そのような躾、生き方の基本をどこで学んだのだろう。

八木秀次監修『親子で読みたい 精撰 尋常小學修身書』が、2002年出版。今から20年前。この本を読み、祖父母による母への躾は、祖父母が尋常小学校で習った「修身」だと思いました。

上述の「ワシントンは、・・・」の話は、「修身書」の「素直な心を持つ(正直・誠実・良心)」に記されています。

修身の教科書というと堅苦しいとの先入観を持つ人もいます。しかし、明治・大正・昭和の尋常小学校修身教科書は、とても分かり易く人としての徳目が記された、具体的な人物の言動の紹介です。

これは良い本だと思い2010年に我が家では、7冊購入し、幼稚園から高校生まで5人の子供を含む親子で、夕食後30分、家族で輪読。親子ともに楽しく学習。今では、懐かしい、一家団欒のひと時でした。

徳目としては、「1.素直な心を持つ(正直・誠実・良心)、2.自分を慎む(謙遜・質素・倹約・寛容・報恩)、3.礼儀正しくする、4.自分の行いを律する(自己規律)、5.夢を持つ(志を立てる)、6.一生懸命働く(勤勉・努力)」。

そして、「7.つらさを乗り越える(忍耐・辛抱・克己)、8.困難に立ち向かう(勇気)、9.やるべきことを成し遂げる(責任)、10.合理的精神を持つ、11.ルールを守る、12.家族を尊ぶ(夫婦・親子・兄弟・祖先)」。

さらに、「13.友達を大切にする(友情)、14.思いやりの心を持つ(同情・博愛)、15.力を合わせて(協力)、16.みんなのために(公益)、17.日本人として、18.美しく生きる」が記されています。

八木秀次氏の「監修者解説」によると、「1981年米国のレーガンは、大統領に就任早々、教育改革に着手。教育長官のベネットは、1993年に「道徳読本(The Book of Virtue)」を刊行し、これは、832頁の大部ながら、1994年から1995年に250万部の大ベストセラーとなる」。

「そして、現在、「道徳読本」は、米国の第二の『聖書』になりつつある。内容は、「自己規律」、「思いやり」、「責任」、「友情」、「仕事・勉強」、「勇気」、「忍耐」、「正直」、「忠誠」、「信仰」の10の徳目で構成」。

「レーガンは、「日本の教育に学べ」と日本に教育視察団を派遣して、日本の教育を学んだ。ベネットの「道徳読本」の着想も、戦前の「修身」の教科書を想定していると推測される」と記しています。

「修身斉家治国平天下(しゅうしん・せいか・ちこく・へいてんか)」。これは『礼記』の「大学」に記された箴言。「天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、家庭をととのえ、国家を治め、そして天下を平和にすべきである」。重要な箴言です。

「修身」、今までも、今も、これからも、必要に思います。

『習慣形成』(平澤 興 一日一言)

「子供の習慣形成にとって最も大切なことは、ただ上からがみがみ言うことではなく、親たちも皆努力をして、家庭の中に良い雰囲気をつくることである」。

「例えば、食前食後の感謝や朝晩の挨拶、履き物の脱ぎ方や長幼の序等にしても、また我慢強さとか、不平や愚痴や悪口を言わぬこと等、家庭の日常生活のそうゆう雰囲気が重要である」。

「それがあれば、やかましく言わなくとも、長い間には自然に子供たちにもそうした気風が移り、そういう態度を身につけるようになる」。

「大事なのは説教ではなく、親たちの日々の生活における心構えと実践である」。

「家庭の中に良い雰囲気をつくる」、「親たちの日々の生活における心構えと実践である」、全く同感。反省です。「修身斉家治国平天下」の教え今、特に必要に思います。

2022-12-27

学びのサロン、 「農は過去と未来をつなぐ」

今年5月から放送大学で始めた「学びのサロン(ゼミ)」、『農は過去と未来をつなぐ』(宇根豊著、岩波ジュニア新書)も残すところ後1回。佳境に入りました。本日は、先日行った「サロン」を少し紹介します。

今回は第7章、「農は過去と未来をつなぐ」を学ぶ。この章は、11の「小見出し」で構成される。

まず、「1.落ち穂ひろい」で始まる。「農業の近代化により失われたものも多い。特に、共同作業の田植えによる楽しみであった、田植え時のご馳走や四方山話」。

また、「コンバインでの収穫により、貧しい人のイネ刈り後の「落穂ひろい」もなくなった。百姓は、貧しい人と天地の恵みを分かち合っていた」ことを紹介。

「落穂ひろい」は、ミレーの絵で知っていましたが、その意味は初めて知りました。

そして、「2.農業技術に欠けているもの」に続く。「農業技術は、百姓仕事にあったものの多くを切り捨て成立している。例えば、田植え歌、落穂ひろい、田んぼの生物」。

この指摘、なるほどと感じます。

次に、「3.農業技術と農学の欠陥」として、「農業技術が自然環境に及ぼす影響の視点の欠如」を指摘する。

これも当たっているように思います。

さらに、「4.なぜ「稲植え」と言わずに「田植え」と言うのか」では、「人間が主体でなく、田んぼが、天地が主体であることを表現しているからだ」と述べる。

そして、「5.2000年前の話」として、「2000年前の荘子の話を例えに、機械化が進むと機械に頼る心が生じ、作物の心が分からなくなる。百姓仕事のお金にならない、趣味や道楽に見える部分こそが、百姓仕事の一番の宝」だと強調する。

私は「趣味の農業」を行っていますが、作物との対話を通じ、作物の心を感じます。著者の指摘、分かります。

また、「6.安全な農薬と減農薬運動」では、「農薬は、人体や農産物及び環境への影響を把握しないまま、その技術がないまま使用したので、被害が発生。農薬散布技術は、それを使いこなす判断技術が未形成のままの提供が問題であった」ことを指摘。

これも的を射た指摘に感じますが、「判断技術の形成」は、難しいのも事実に思います。

次に「7.虫見板で主体性をとりもどす」として、「要防除密度は、百姓が自分の田んぼで農薬を散布せずに試して、総合的に把握する以外にない」という。

さらに、「百姓が、虫見板で主体性を回復した。虫見板による田んぼの生き物調査により田んぼの雰囲気で害虫の発生が分かるようになる」と述べる。

この指摘も同感です。同時に「言うは易く行うは難し」も感じます。

「8.植え付けられた「生産性」」として、「「労働時間」により「労働生産性」が近代化をすすめる尺度として百姓に植え付けられた。仕事がはかどることと労働生産性が高いことは関係なく、むしろ対立」だと指摘。

次の「9.生業をつぶす指導」では、「百姓を評価する時、もうけより、農産物の見事さや仕事の豊かさで評価。「生業」とは、作物を育てる営みである。所得より仕事や生き方が大切。農業も生業ではなく、産業になる近代化が進められ、自立経営農家の育成が推奨されている」という。

そして、「10.百姓になろう」では、「百姓には2人の先生があり、それは、同じ村の長老の百姓と自然。百姓仕事に没頭できる時間が増えた時が、あなたが求めていた世界」だと述べる。

「百姓仕事に没頭できる時間が増えた時が、あなたが求めていた世界」、何となく分かります。我が家の畑の横に椅子を置き、畑仕事のひと時として椅子に座りボンヤリ畑の作物を眺めると思わず頬が緩みます。

何故だろう。一つには心穏やかに過ごせるから、一つには汗を流して楽しく過ごせるから。でもよくは分かりません。このような時が持てるのが人生の楽しみの一つと考えていたからかもしれません。

最後に「11.過去と未来をつなぐ」として、「田んぼを開いた先人にお礼や感謝し、子孫や未来に田んぼをさらに豊かにして伝える」ことが重要であると指摘し、本章は終わる。

色々と考えらされた第7章『農は過去と未来をつなぐ』。参加者で意見交換し、多面的に学びました。刺激と学びの貴重なひと時、参加者の皆さんと著者の宇根さんに感謝です。

『陶冶(とうや)する』(安岡正篤 一日一言)

「最高の教育を受けた人間も、その後の自己陶冶を缺(か)いては、立派な人間には成り得ない。ごく劣悪な教育も、自己陶冶によっては、なお改善され得るものである。いかにも人間は陶冶次第です」。

「「陶」というのは、焼き物を造る、「冶」というのは、冶金の冶で、金属を精錬することであります」。

土を粘(ね)り、焼いて、陶器を造る。鉄を鍛えて鉄器を造るようなもので、人間もやはり、焼きを入れ、鍛えるということをやらなければ、ものになりません。いくつになってもそうであります」。

『陶冶する』、「いくつになっても焼きを入れ、鍛える」、重要に思います。

2022-12-25

年末のご褒美、師走居酒屋一人酒

「私は、男は、いやもちろん女もそうだけれど、時々一人になる時を持つことは大切と思う。会社も友人も家族も、すべてのしがらみから離れ、一人でぼんやりする。何か考えても良いが、考えなくても良い」。

「男が一人になって何をするかといえば、それは酒を呑むのが一番ふさわしい。居酒屋の片隅で、何も考えず一人、盃を傾けぼんやりする。人嫌いで山に登るのとは違い、あくまで市井の、他人のうず巻く町の中にあって孤独を愉しむのである」。

これは、太田和彦さんの『超・居酒屋入門』の一部抜粋。

この文章、好きです。この感覚、よく分かります。私も年に数回、一人で居酒屋に行き、ぼんやりします。

先日も山形市の居酒屋で「年末のご褒美、師走居酒屋一人酒」を楽しみました。本日は、それを少し記します。

初めての居酒屋でも、馴染みの居酒屋でも私の一人酒、「酒飲みの流儀」は、同じです。まずは、ビールを注文し、「キュー」と一杯やり「お通し」を味わいます。そして、新鮮なお刺身と「日本酒」の熱燗を注文。

居酒屋では、地酒も含め日本各地の美味しいお酒が「日本酒リスト」として記されています。しかし、「日本酒」と記された酒もあります。おそらく、これは地元の2級酒。この熱燗を頼み、お刺身をいただく。

一人ぼんやり何も考えずに熱燗を「グイッ」とやり、お刺身を味わう。最高のひと時です。

この熱燗の「日本酒」も楽しみです。数ある地元のお酒から、どのお酒をそのお店の「日本酒」とするか、居酒屋の個性が出ます。

熱燗とお刺身をいただき、ぼんやりと「本日のお勧め料理」をながめ、美味しそうな料理を選択。この選択の時間も楽しいひと時。

そして、熱燗を飲み干すと地酒リストから辛口の冷酒を一合注文。ぼんやりしながら美味しい料理で地酒を「グイッ」とやる。至福のひと時。

前述の太田さんは「一人酒の良いところは、黙っていられるからだ。注文以外ひと言も発しないでいい」と記します。同感です。

注文した地酒を飲み干すとイモ焼酎のロックに移行。イモ焼酎をチビリチビリやりながら、料理を楽しむ。

司馬遼太郎さんが『峠』で記す「河井継之助」の人物像がふっと浮かびます。

「男子の生涯の苦渋というものは、その志の高さを如何に守り抜くか、というところにあり、それを守り抜く工夫は格別なことではなく、日常茶飯事の自己規律にある」。

「日常茶飯事の自己規律にある」、心に残るひと言です。

「箸のあげおろしにも自分の仕方がなければならぬ」。

「物の言い方、人とのつきあい方、息の吸い方、酒の飲み方、遊び方、ふざけ方、全てがその志を守るがための工夫によって貫かれておらねばならぬ、というのが、継之助の考え方であった」と記す。

「酒の飲み方」への「自分の仕方」、あります。手酌での注ぎ方、盃の握り方、傾け方、置き方。居酒屋での一人酒では、「酒の飲み方」への「自分の仕方」にこだわりながらその場を楽しみます。

太田さんは著書の「小見出し」、「居酒屋の流儀」で、「居酒屋では一言で言えば、「粋に」飲みたい。自宅ならばパジャマで飲もうが何でもOKだけれど、外ではこれも社交だ」。

「あの人が来ると何かお店が上品になっていいね、こう言われるようになろう」と記します。

「あの人が来ると何かお店が上品になっていいね、こう言われるようになろう」。いいですね。

「粋に飲む」、居酒屋での一人酒で心掛けているキーワード。次回の一人酒も「粋に」飲みたいと思います。

数日前にお世話になった山形の居酒屋さんと太田さんに感謝です。

『笑いと成長』(平澤 興 一日一言)

「ある人が申しました。どこまで笑って暮らせるかということで、その人の人間としての成長がわかると」。

「ある人は80のところでもう怒ってしまう、ある人は70のところでへこたれてしまう、ある人は95くらいのところまでは我慢できる等々です」。

「どこまで我慢できるか、どこまで心の平和を保つことができるかというような高さが、その度盛りが、人間の成長度を示す」。

「どこまで我慢できるか、どこまで心の平和を保つことができるか」、簡単ではありません。『笑いと成長』、胆に銘じます。

2022-12-23

「真冬のスポーツ」、室内テニス

ウインタースポーツといえば、スキーやスノーボードが思い浮かびます。山形大農学部に赴任した約30年前は、毎週のように車で30分の羽黒山スキー場でお世話になりました。

時は移り過ぎ赴任時から継続しているスポーツは、テニスと水泳。いずれも室内で可能なスポーツです。

本日は、久しぶりに「真冬のスポーツ、室内テニス」等について少し記します。

まずは、プロテニス界。「一大事件」は、長年、世界ランキングのトップにいたフェデラー選手の引退。41歳、凄い選手でした。取れないようなボールでも決して諦めず打ち返す姿は、学びです。

美しい片手バックハンドは、私の目標であり憧れ。この冬、フェデラー選手のバックハンドをモノにしたいと思います。

スポーツは美しいこと、格好の良さも重要に思います。「生き方」もそうかもしれません。

また、我が故郷、島根の有名人、錦織圭選手。元世界ランク4位。昨年10月に怪我により離脱し、今シーズンは、姿を見られませんでした。残念です。

これらの選手に代わって世界ランクの上位選手は、10代後半及び20代前半の選手。若い選手が、トップテンで活躍するのは嬉しいですが、これまで活躍したトップの選手の姿が消えていくのは寂しいです。

しかし、これは世の常でしょう。世代交代、不可欠です。

さて、私は昨年10月中旬、頸椎損傷が右腕の神経へ影響して半年間、右手が上がりませんでした。独自のリハビリで今、8割方回復。怪我で下位のクラスでの練習でしたが、12月からは怪我前のクラスに復帰。

五体満足の有難さをシミジミ感じます。9月から始めたボディビルも右腕の回復に良い影響を与えています。体は、鍛えるとそれに反応してくれるのが嬉しいです。

私が通うテニススクールのレッスンは、週一回で8回終わると新学期に移行。今学期は、フェデラー選手のバックとフォアの習得及びスライスサーブのレベルアップが目標です。

何も忘れて無心でボールを追いかけ良い汗をかくひと時、至福の時です。テニスが継続して楽しめるようにボディビルで基礎体力をつける予定です。基礎体力、重要に思います。

数日前から、ここ庄内地方、大雪です。高速バス停 「庄内あさひ」の駐車場、1日駐車した車は、この写真のように「カマクラ」。大雪の日は、我が家の駐車場、朝と夕方の2回、除雪機で除雪。


そんな大雪の日でも短パンと半袖のテニスウエアで汗だくになる室内テニス、有難いです。

本日は、私周辺の「真冬のスポーツ」を少し紹介しました。

『最高の生き方』(平澤 興 一日一言)

「今が楽しい。今がありがたい。今が喜びである。それが習慣となり、天性となるような生き方こそ最高です」。

『最高の生き方』、実行したいですね。

2022-12-21

安岡正篤先生の著書、『呻吟語を読む』

毎朝、起床すると朝一番にやることは、安岡先生の『安岡正篤活学選集全10巻』『平澤興講演選集「生きる力」全5巻』の読書です。前者は2回目、後者は3回目の読書。

お二人の先生の書を読むと何故か爽やかになり、心穏やかに一日を始めることができます。本日は、先日、第2回目を読了した『安岡正篤活学選集第4巻』の『呻吟語を読む』を少し紹介します。

『呻吟語(しんぎんご)』は、中国明代の哲学者、呂新吾先生の書で、江戸時代から明治にかけて多くの日本人が学んだ書とのことです。

本書は、安岡先生が、昭和46年に、全国師友協会主催の照心講座において15回連続で講義された講録。

まず、「第1講 不朽の人間学」で始まり、「第2講 自己改造の哲人・呂新吾」、「第3講 個の力の根源をなす核とは」、「第4講 現代社会の“呻吟”の種」、「第5講 己を修め人を修める」と続く。

そして、「第6講 人はいかにあるべきか」、「第7講 道を志す者の七見識」、「第8講 事を行う者の心得」、「第9講 人間の九つの品格」、「第10講 深沈厚重の徳」、「第11講 学問・政治の要訣」。

さらに、「第12講 真の交友のあり方」、「第13講 政を行う道とは」、「第14講 東洋の人生観の原理原則」、「第15講 いま待望される宰相像」で終わる。

「第6講 人はいかにあるべきか」には、「上士・中士・下士」の見出しで、「古今の士に率(おおむ)ね三品有り。上士は名を好まず。中士は名を好む。下士は名をも知らず」が紹介されています。

安岡先生イワク、「終わりの一句がよく利いていますね。下士は名を好むことすらしらない。名などどうでもよい、ただ金さえ有ればよいというわけです。世の中にはこうゆう人間がなかなか多い。これを下士という」。

「それが少し飯が食えるようになると、名誉・名声が欲しくなる、名刺に肩書きを刷り込みたくなる。こうゆうのが中士。そんなこともばかばかしくなってくると初めて上士であるというのです」。

「人類の今後の運命を決定するものは科学や技術ではない、やはり人間の学問です。人間がいかにあるかということです」。

「人間がいかにあるか」、心にしみる一言です。

本書の最後に安岡先生を師と仰ぎ、先生から『呻吟語』を勧められて何回も味読された豊田良平氏が、「人間錬磨の書『呻吟語』に学ぶ」を記されています。その一部を紹介します。

「呻吟というのは、良心の呻(うめ)きである。呻吟するということは、肚の底から出てくる良心の呻きである。それは人生創造への一つのつぶやきである」。

「深沈厚重なるは、是を第一等の資質。磊落(らいらく)豪雄なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、是れ第三等の資質。これが『呻吟語』の全巻を貫く思想です」。

「深というのは、深山のごとき人間の内容の深さであり、沈は沈着毅然ということです。厚重は、重厚、重鎮と同じで、どっしりとしていて物事を治めるということ」。

「上に立つ人は、それぞれの立場において、重鎮することが必要です。言い換えると。その人が黙っていても治まるということです。あくまでも「治まる」のであり、「治める」のとは内容が違います」。

「沈は沈静ですから、重鎮は静かに治まるということにもなる。そして重厚ということは、人間の幅が広く厚いということです」。

「磊落というのは、大きな石がごろごろしておる、恬淡(てんたん)で豁然(かつぜん)としていること。豪雄とは、優れた人のこと。つまり、あっさりしていて腹中に大きなものを養っている人を第二等という」。

「「聡明才弁なるは」は、聡明で弁も立つということですが、こういうことは人間にとって第三等だというわけです」。

「第一等の人物」、心に留めたいと思います。人間がいかにあるかについて『呻吟語を読む』から多面的に学び、色々と考えらされました。安岡先生に感謝です。

『知識・見識・胆識』(安岡正篤 一日一言)

「いつも申しますように、識にもいろいろあって、単なる大脳皮質の作用に過ぎぬ薄っぺらな識は「知識」と言って、これは本を読むだけでも、学校へのらりくらり行っておるだけでも、出来る」。

「しかしこの人生、人間生活とはどういうものであるか、或(あるい)はどういう風に生くべきであるか、というような思慮・分別・判断というようなものは、単なる知識では出て来ない」。

「そういう識を「見識」という。しかし如何に見識があっても、実行力、断行力がなければ何にもならない」。

「その見識を具体化させる識のことを「胆識」と申します。けれども見識というものは、本当に学問、先哲・先賢の学問をしないと、出て来ない。更にそれを実際生活の場に於いて練らなければ、胆識になりません」。

「今、名士と言われる人達は、みな知識人なのだけれども、どうも見識を持った人が少ない」。

「まだ見識を持った人は時折りあるが、胆識の士に至ってはまことに寥々(りょうりょう)たるものです。これが現代日本の大きな悩みの一つであります」。

『知識・見識・胆識』、心に残る箴言です。

2022-12-19

放送大学「Vision」と学習センターの対応

放送大学では、1年に2回、学長が議長となり全国所長・事務長会議が開催されます。先日、本年度2回目の会議があり、学長が「Vision 2027」 に触れた挨拶をされました。

学習センター(SC)所長は、Visionを頭に置き、センターに関連するVisionの達成に向けて努力すべきと再認識。本日は、そのVison 等の一部を紹介します。

放送大学の組織は、大別すると千葉市にある本部と各都道府県にある50のSCより構成されています。大学の「Vision」 は、本部及び各SCがそれぞれ対応する「Vision」となっています。

写真は、千葉市の放送大学本部。

まず、今回の「Vision」では、放送大学の4つの社会的使命が明記されました。

1.人生100年時代における生涯学習を広汎かつ多様に支援する。

2.職能開発・キャリアップのための多様なリカレント(学び直し)教育機会を提供する。

3.人々に広く学位取得への道を開放する。

4.学術研究の推進と教育イノベーションにより高等教育の内容的および方法的進歩に寄与する。

従来は、使命があまり明確でなかったとかで、それが今回の「Vision」では明確化、ウリの一つです。

さらに、下述の4つのマスタープランが決定され、その下に12のアクションプランが記されています。

マスタープランは、「Ⅰ 社会と時代の要請に応える教育改革、Ⅱ 教育DXの推進とデジタルデバイドの解消、Ⅲ 研究する大学としての機能の充実、Ⅳ 連携機能の充実と社会貢献」の4つです。

各SCと関連するマスタープランは、「Ⅳ 連携機能の充実と社会貢献」で、下述の⑩から⑫の3つのアクションプランが含まれます。そのアクションプランの一部を記します。

⑩ 学び合いと地域連携の場としての学習センター

多様な形態の面接授業を提供することで学びの拠点の特性を最大限発揮し、放送大学での新たな学修推進のために必要な学生支援を行う。

また、他教育機関や自治体と放送大学をつなぐ役割を担い、地域社会への情報発信に努める。

⑪ 他大学等との連携・単位互換方式の推進

他大学等との連携をさらに進める先導的取り組みを行う。

放送大学の特徴や利点を活かした科目の共同設置や他大学の不足科目の補填・相互乗り入れ等、高等教育制度全体を補完する受け皿としての役割や機能を担う。

⑫ 国際化と社会貢献

在外邦人や高度な日本語能力を有する外国人等、海外からの学生を受け入れるとともに、日本での就学就労をめざす国内外の外国人に教育の機会を提供する。

アクションプランは、2021年4月に就任された学長が2022年3月末に発行されました。

本日は、先日の全国会議での学長挨拶で触れられた「Vision 2027」を紹介。これから、アクションプランのSCに関わるプラン実現に向けて尽力したいと思います。

『思考の三原則』(安岡正篤 一日一言)

「私は物事を、特に難しい問題を考えるときには、いつも三つの原則に依るように努めている」。

「第一は、目先に捉われないで、できるだけ長い目で見ること、第二には物事の一面に捉われないで、できるだけ多面的に、できれば全面的に見ること、第三に何事によらず枝葉末節に捉われず根本的に考える、いうことである」。

「目先だけで見たり、一面的に考えたり、枝葉末節からだけで見るのと、長期的、多面的、根本的に考えるというのとでは大変な違いがある」。

「物事によっては、その結論が全く正反対ということになることが少なくない。我々は難しい問題にぶつかる度にこの心がけを忘れてはならぬ」。

『思考の三原則』、肝に銘じたいと思います。

2022-12-17

『致知』を教材に自己研修、「特集 運鈍根」

「人間学を学ぶ月刊誌」、『致知』の記事を教材とした自己研修会を山形学習センター及び鶴岡市で開催しています。本日は、『致知』と2022年11月号『特集 運鈍根』の藤尾社長、リード文を少し紹介します。

『致知』は毎号特集が組まれ、編集の構成としては、1)巻頭の言葉、2)藤尾社長の特集に関するリード文、3)特集に関連する記事、4)その他から構成されています。

毎号、味わい深い特集が組まれ、『致知』が送られてくるのが楽しみです。

「運・鈍・根―古来、言い伝えられてきた人が成功するために必須の三条件。時代がどう変わろうと、この三条件は物事を成していく上で欠かせない三条件であることに変わりはない」とリード文は始まる。

そして、「運は巡り合わせである。鈍は粘り強いということである。目標に向かって脇目も振らずまっしぐら、ということである。根は根気、根性である。何があろうとへこたれず続けることである」と続く。

さらに、不運を鈍と根により好運に塗り替えた森信三先生の経歴と、その体験から紡ぎ出された先生の下術の金言が紹介されている。

「人は一時期下積みになっても、それは将来の土台づくりであり、一時の左遷や冷遇は、次の飛躍への準備である」。

「忍耐力・持久力の涵養期として隠忍自重して、自らの与えられたポストにおいて、全力発揮を怠らなかったら、いつしか必ずや日の目を仰ぐ日のあることを確信して疑わない」。

「これが八十有余年の生涯を通しての私の確信して疑わないところである」。

「巡ってきた運を確かなものとし、好運に転じていく力が鈍・根にはある。そのことを忘れず、私たちも人生を切り開いていきたい」でリード文は終わる。

「運は巡り合わせ、鈍は粘り強い、根は根気、根性である」。『運鈍根』、大事にしたいと思います。

『運鈍根』(平澤 興 一日一言)

「世の中に運鈍根などという言葉がある。鈍とは私のいうのろさであり、根とはのろさを知る故に心の底から出る根である」。

「運とは鈍根のような誠実な生き方をする人に与えられる天の恵みということかと思われるが、面白いもので大成した人々には、確かに運鈍根型の人が多い」。

「大成した人々には、確かに運鈍根型の人が多い」、面白いですね。