2020-11-29

人間学の学び、「根を養う」

「歴史や古典、先達の教えに心を磨き、自らの人格を高め、それを道標に、自分にしか生きられない、一回限りの人生を豊かに生き抜くべく努め励んでいる人はたくさんいます」。

「有名な人、無名な人を問わず、どんな世界でも各界で一所懸命に生きている真実の人たちがいる。そういう真実の人を見つけ出し、その方たちの体験やそこで得られた英知に学ぼう」、これが「致知」です。

11月25日、山形学習センター「致知を読み、楽しく人間学を学ぶ会」、第2回。今回の教材は、「致知」2020年11月号 「特集 根を養う」。私を含め7名のメンバー。1時間の予定が、1時間40分。「熱い学び」。

今回の教材、まずは、茶道裏千家前家元 千 玄室 氏による「巻頭の言葉」。「人を思う気持ちは国を越え宗教を越え、頑(かたく)なな人をも揺り動かす力を持っている」。 

「同じ人間という立場でこの地球上に住まわせていただいていることを心に留め、感謝を持って日々を過ごしていきたいものである」。「感謝を持って、日々を過ごす」。重要に思います。

次に、致知編集長 藤尾秀明 氏による特集リード文「根を養う」。

「哲学者森信三師をして「日本の教育界の国宝」と言わしめた東井義雄氏もまた、子供たちに根を養うことの大事さを説き続けた人である」。「教育は、子供たちの心の根を養うものでなくてはならない」。

東井さんは小学校の校長として毎年卒業していく子供たち一人ひとりに、自筆の色紙を手渡したとのこと。

「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」。「明日がある、明後日があると考えている間は、何にもありはしない。肝心の“今”さえないんだから」。

「自分は自分の主人公。世界でただ一人の自分を作っていく責任者」。「問題においかけられるのではなく、問題を追いかけていく」。分かりやすい言葉、人生の核心をついた言葉に思います。

東井語録の一部を紹介します。「根を養えば樹は自ら育つ」。「高く伸びようとするには、まずしっかりと根を張らねばならない。基礎となる努力をしないと、強い風や雪の重みに負けてたおれてしまう」。

「意味というものは、こちらから読みとるものだ。値打ちというものは、こちらが発見するものだ。すばらしいものの中にいても意味が読みとれず、値打ちが発見できないなら、瓦礫の中にいるようなものだ」。

最後は、愛知専門尼僧堂頭 青山俊董 氏の「是の処は、即ち是れ道場(根を養う生き方)」。

「大切なのは、たった一度の人生を何に懸けるのか。日々の出会いの中で何を選ぶかなんです」。「生かされた命と分かれば、それに相応しい生き方をしないではおれなくなります」。人生の本質をついた言葉。

「過去にも未来にもたった一つしかない、この尊い命をどう生きるか。それを学ぶのが人間学」。

「人間学を学ぶ会」、「致知」を深く読み、人間学を熱く語りました。同じ教材でも、参加者の経験や生き方及び考え方で、とらえ方や関心事は異なります。「我以外、皆わが師」。学びの100分間。

新たな発見と学び。相互に学ぶ読書会、とても実り多く有意義でした。参加者の皆さんに感謝です。

写真は、毎日通勤する月山道から雪を抱いた月山の一葉です。

『人間喪失の時代』(安岡正篤 一日一言)

「ひとかどの人で『論語』の一冊、観音経の一冊を書写しなかった人はいない。生活の中に『論語』を持ち、法華経を持ち、観音経を持ち、あるいは中江藤樹を持ち、山鹿素行を持たざる者はなかった」。

「それはその人の中に、その生活の中に、事業の中に哲学や信仰があった。学問求道があった。これが国を興し、人を救った。それが今日なくなった。こういうところに現代の浅ましい人間喪失がある」。

「人間喪失とは、魂の喪失、心の喪失である。文明国の中でそれが最もはなはだしいものが、今日の日本ではないか」。

昨日読んだ安岡先生の「一日一言」。

「その人の中に、その生活の中に、事業の中に哲学や信仰が、学問求道があった。これが国を興し、人を救った。それが今日なくなった。こういうところに現代の浅ましい人間喪失がある」。

何故か、心に強く残りました。

2020-11-27

発憤興起の人、広岡達朗元西武監督

「悶々として眠れない夜を過ごすうちに、悲しみはしだいに怒りに変わってきた。私は、ベッドに倒れこむと、声をあげて泣いた。正直いって、私はそのとき、川上さんを殺したいと思った」。

「その怒りは、やがて闘志に転化した。私の胸になにかが点火した。「よし、このアメリカで勉強し、川上さんを超える野球を必ず身につけてみせる」」(広岡達朗著:「意識改革のすすめ」、一部抜粋)。

「発憤興起の人、広岡達朗氏」。上述の文は、巨人軍を退団し、乳飲み子、幼稚園児、小学校1年生の3人の幼子を残して、野球留学のため単身渡米。そして、広岡さんの米国での活動が、川上さんにより妨害された直後の思い。

先日、「広岡達朗氏と鶴瓶の対談」ユーチューブが、唐突にスマホに乱入。面白そうだったので、チョイと見たら、これが「学びのチューブ」。広岡さんの苦悩の半生記、勉強になりました。

書斎の本棚を見ると1986年第1刷発行、講談社文庫版、「意識革命のすすめ」を発見。

文庫の裏表紙に「勝つために何を為すべきか。セパ両リーグにまたがる日本一、西武ライオンズ監督4年の任期中リーグ優勝3回、連続日本一を達成した智将広岡達郎の実践的勝利学」。

「根性、精神主義ではなく、合理的、科学的な本人の意識革命を通じて、戦う組織集団が形成される。ビジネスマン必読の兵法書」と記述。「本人の意識革命」、重要に思います。

早速、再読し、「第1章 プロフェッショナルとはなにか」の6頁まで読み、2回涙腺が緩みました。広岡さん、智将であるとともに「情」の人。機微に聡い。

早稲田大学卒業後、巨人軍に13年間在籍。川上哲治選手、さらには川上監督との固執や冷遇、執拗で陰湿な「イジメ」に合う。そして、「川上野球」を超える野球を目指し、それを成し遂げる。

広岡さん、信念の人、不屈の人、発憤の人、凄い人です。

凝り性の私は、広岡さんの書をネットで買い漁り、読み耽りました。



「広岡イズム」の帯写真、広岡さん85歳の顔。いい顔です。郵送されてきた本に「初心生涯 広岡達朗」との直筆サインを発見。感激、不思議な縁です。

広岡語録の一部を紹介します。「言葉で教えるよりも、「なぜか」と考えさせ、体得させるほうが、身についた教育ができる。無言の指導で考えて覚えることが重要」。

「「ゴロの捕球を正確に指導する場合」、なぜそうするのか、そのためにどうすればいいかを説きつつ、基本を繰り返す。対話しながら基本を繰り返す」。

「基本を繰り返し、選手が納得し、自分にプラスになると理解して、初めてその技術が選手の身につく。指導とは根気と見つけたり」。

「その動作が習慣として身につくまでは、本当に分かったとはいえない。訓練の必要性をいかに理解させるのかが必要」。

「選手の能力、性格、生い立ち等々、全て把握して初めて適正な指導や的確な用兵が可能である。まず己を知ることから始める」。

「野球監督の理想は何か。第一が、監督は正直であること。第二は、監督が自ら乗り出すのは、最後の最後、ここぞというときだけ」。

「第三は、選手に、この監督は本当に野球を知っていると思われ、尊敬されること。第四に、自分は何をなすべきかという、それぞれの役目を理解できる選手に育て上げること」。

広岡さんは、川上さんへの発憤興起のお陰で今の自分があると記していました。

万年Bクラスのヤクルトを監督2年目で日本一、西武監督4年でリーグ優勝3回、日本一2回。日本一は、広岡さんが3回、広岡野球の継承者、森監督が6回、工藤監督が5回達成。

「広岡流意識革命」、凄い。技術革命は必要、意識革命は重要。川上さんを超える野球です。

今年のプロ野球日本シリーズの開幕前、広岡さんが、「今年も日本シリーズは、西武で決まりです。何故なら、私が西武監督、工藤公康を教えたからです」と、自信満々に明言した新聞記事を読みました。

その通りになりました。根本は、意識革命。これは、簡単ではありません。広岡さん、凄い。この凄さの背景には、「発憤興起の人、広岡さん」があります。発憤できるか、できないか。二度ない人生で重要に思います。

『大努力』(安岡正篤 一日一言)

「修養のしかたによっては、人間にはいかなる能力があるかわからぬほど貴い。研究すればするほど、人間の美質は発見せられ能力が発揮せられるのである」。

「学校の成績は平均点が30点でも40点でも、それで己は駄目だと考えてはいけない。大いに有為有能の人材となる大理想を持ち大努力をせねばならぬ」。

「大努力をなすには、当然自ら苦しまねばならぬ。苦しんで開拓したものでなければ本物ではない。人並みの努力をしたのでは秀れた者にはなれない」。

「秀れた者となるためには、人の数倍の努力と苦労をしなければならない。人の寝るところは半分にし、人の食うところは半分くらいにしても、努力するところは人の10倍も20倍もやるだけの元気がなければならぬ」。

「20歳前後や30歳前後は、いくら力(つと)めても疲労などするものではない。心身ともに旺盛な時である」。

「まかり間違って病気になったり死んだりすれば、その時は天命と諦めるのである。学徒が学問のために死ぬのは本望ではないか」。

大努力の人、広岡さん。「有為有能の人材となる大理想を持ち、大努力をせねばならぬ」、肝に銘じたいと思います。

2020-11-25

「生物群集を考える」

「群集理解にとって不可欠な基礎概念を研究史とともに詳述」。

「ネットワーク、相互作用、生態系の複雑性と安定性の関係等、群集の構造とその機能に不可欠な概念をその歴史とともに学ぶ」との帯の書籍が、数ヶ月前に届きました。

この書籍は、京都大学学術出版会「シリーズ群集生態学 第1巻 生物群集を理解する」です。

このシリーズ、「第2巻 生物進化からせまる」、「第3巻 生物間ネットワークを紐とく」、「第4巻 生態系と群集をむすぶ」、「第5巻 メタ群集と空間スケール」、「第6巻 新たな保全と管理を考える」があります。

一般的に学術書の原稿は、複数の専門家が査読し、査読者の意見等を参考に書き換え、その後、出版されます。

京大出版会から、上述の本が届き、10年以上前、「生物群集を理解する」、「第2章 競争と平衡の群集論の展開」の原稿査読を思い出しました。第2巻から6巻までは、約10年前に刊行され、第1巻だけが未刊。

第1巻が贈られ、「シリーズ群集生態学」を懐かしみ、やっと刊行された第1巻、感慨深く思いました。私も「第6巻 新たな保全と管理を考える」の「害虫管理の新展開:群集生態学の視点から」を執筆。

山形大学28年の在職中、後半の12年間は、農学部長や理事・副学長として管理や運営業務が主で、専門の研究から疎遠。それゆえ、久しぶりに新刊専門書を読み、昔を色々と思い出しました。

今から30年前、私も含めた3名、日本生態学会で自由集会「生物群集を考える」を企画し、多くの若手研究者と生物群集の研究を多面的に楽しく学びました。

この自由集会は、1990年から2002年まで、10回開催。講演者からの原稿を中心に年1回、「生物群集を考える ニュースレター」も発行しました。

これは、「あるテーマに関する総説原稿(Opinion paper)」と、それに対する「コメント」より構成され、「あるテーマ」をより深く多面的に理解する試み。手前味噌ですが、とても好評な「レター」でした。

さらに、第10回目の自由集会終了時には、京大出版会から「群集生態学の現在」を刊行。これは当時、活発に研究している研究者に執筆を依頼し、出版しました。

群集生態学に関する書籍がなかった当時、これは貴重な専門書。多くの生態学研究者に読まれました。

最後の自由集会は、会場が大入り満員。その後の懇親会には、約60名の研究者が集まり、楽しく熱く研究討論しました。懐かしい思い出です。

この企画を通じ、地方大学での研究活動の維持には、全国学会で自由集会等を企画し、多面的に学ぶことの必要性を感じました。

そして、これらの企画から知り合いが増え、これは研究上の貴重な財産になりました。人と人との出会い、重要に思います。多面的な挑戦、必要に感じます。

情報技術が発達しても、研究者が直接議論する場と懇親する機会は必要に思います。

京大出版会から贈られてきた「生物群集を理解する」を読み、研究者時代の昔を懐かしく思い出しました。

『無駄を恐れるな』(平澤 興 一日一言)

「機械の中の一つのボタンや歯車のような存在だけでは、人間とは申されますまい」。

「どんな学問をやるにしても、次の発展への可能性があり、複雑な環境の中にあっても人間的な味を失わず生きて行くようになるためには、学生時代は骨惜しみをしてはなりませぬ」。

「必要最小限度の勉強で要領よくやるというようなことでは、仮に優秀な頭脳を持っておっても決して人生に大なる貢献はできませぬ」。

「まじめに生きることによって生ずる無駄や失敗を恐れてはなりませぬ。ある意味では無駄のない人生は浅い人生です」。

研究生活を含めた人生を今振り返ると、多くの無駄や失敗がありました。これは、短期な視点からは無駄や失敗でも、長い人生では、その経験が役立ったことが多々あります。「無駄を恐れるな」、同感です。

2020-11-23

明治、大正、昭和の小学校教育、「修身」

「ワシントンは、にわへあそびに出て、父のだいじにしていた、さくらの木を切りたおしました。「これはだれが切った」と父にたずねられた時、「私が切りました」と、かくさずに答えてわびました」。

「父はワシントンのしょうじきなことをよろこびました。これはワシントンの六さいの時のことでありました」。

これは、明治43年の尋常小学校修身教科書に掲載されていた、1年生向けの読本の中にある「しょうじき」の記述です。

最終学歴、尋常小学校卒の祖父母が、父や母をどのように育て、人としての生き方を示したのか考えたことがあります。

母は生前、「自分の子供のころ、祖母から厳しく日々の生活を躾られ、それが今に通じている」と話していました。農業を生業(なりわい)としていた祖父母は、そのような躾、生き方の基本をどこで学んだのだろう。

八木秀次監修「親子で読みたい精撰尋常小学修身書」が、2002年出版。今から18年前。この本を読み、祖父母による母への躾は、祖父母が尋常小学校で習った「修身」だと思いました。


上述の「ワシントンは、・・・」の話は、「修身書」の「素直な心を持つ(正直・誠実・良心)」に記されています。

修身の教科書というと堅苦しいとの先入観があります。しかし、明治・大正・昭和の尋常小学校修身教科書は、とても分かり易く人としての徳目が記された、具体的な人物の言動の紹介です。

これは良い本だと思い2010年に我が家では、7冊購入し、幼稚園から高校生まで5人の子供を含む親子で、夕食後30分、家族で輪読。親子ともに楽しく学習。今では、懐かしい、一家団欒のひと時でした。

徳目としては、1.素直な心を持つ(正直・誠実・良心)、2.自分を慎む(謙遜・質素・倹約・寛容・報恩)、3.礼儀正しくする、4.自分の行いを律する(自己規律)、5.夢を持つ(志を立てる)、6.一生懸命働く(勤勉・努力)。

そして、7.つらさを乗り越える(忍耐・辛抱・克己)、8.困難に立ち向かう(勇気)、9.やるべきことを成し遂げる(責任)、10.合理的精神を持つ、11.ルールを守る、12.家族を尊ぶ(夫婦・親子・兄弟・祖先)。

さらに、13.友達を大切にする(友情)、14.思いやりの心を持つ(同情・博愛)、15.力を合わせて(協力)、16.みんなのために(公益)、17.日本人として、18.美しく生きる、が記されています。

八木秀次氏の「監修者解説」によると、「1981年米国のレーガンは、大統領に就任早々、教育改革に着手。教育長官のベネットは、1993年に「道徳読本(The Book of Virtue)」を刊行し、これは、832頁の大部ながら、1994年から1995年に250万部の大ベストセラーとなる」。

「そして、現在、「道徳読本」は、米国の第二の『聖書』になりつつある。内容は、「自己規律」、「思いやり」、「責任」、「友情」、「仕事・勉強」、「勇気」、「忍耐」、「正直」、「忠誠」、「信仰」の10の徳目で構成されている」。

「レーガンは、「日本の教育に学べ」と日本に教育視察団を派遣して、日本の教育を学んだ。ベネットの「道徳読本」の着想も、戦前の「修身」の教科書を想定していると推測される」。

「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」。天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、家庭をととのえ、国家を治め、そして天下を平和にすべきである。

「修身」、今までも、今も、これからも、重要に思います。

写真は、雪を抱いた秋の鳥海山と月山の一葉。よい眺めです。


『習慣形成』(平澤 興 一日一言)

「子供の習慣形成にとって最も大切なことは、ただ上からがみがみ言うことではなく、親たちも皆努力をして、家庭の中に良い雰囲気をつくることである」。

「例えば、食前食後の感謝や朝晩の挨拶、履き物の脱ぎ方や長幼の序等にしても、また我慢強さとか、不平や愚痴や悪口を言わぬこと等、家庭の日常生活のそうゆう雰囲気が重要である」。

「それがあれば、やかましく言わなくとも、長い間には自然に子供たちにもそうした気風が移り、そういう態度を身につけるようになる」。

「大事なのは説教ではなく、親たちの日々の生活における心構えと実践である」。

「家庭の中に良い雰囲気をつくる」、「親たちの日々の生活における心構えと実践である」、全く同感。反省です。「修身斉家治国平天下」。

2020-11-21

放送大学、楽しく分かりやすい授業

「小学校卒業以来ただただ働き続け、80歳を過ぎて、卒業などは考えずに生活時間の「穴埋め」として放送大学に入学。最初に選んだ科目でAがとれて続ける決心がつきました」。

「3コース目を卒業する時、最高齢卒業者として、学長特別表彰を受けたのが印象に残っています」。

これは、北海道学習センター、101歳で4コース目を卒業された学生の方の放送大学での歩みと感想。

放送大学では、定年退職された方や、ご年配になり入学された方も少なくありません。また、1つのコースを卒業され、2つ目3つ目と、さらに異なるコースを卒業される方もあります。

1つのコースは、大学での1学部に相当。2コース卒業とは2学部の卒業です。山形学習センターでは、6コースを卒業された「グランドスラム達成者」が1名、今年度さらに1名が達成予定です。

私は、10月から新入生として「文学・芸術・武道にみる日本文化」を聴講しています。この体験を通じ、ご年配の方が入学されることや、学位取得後、さらに違うコースを受講される理由の一端が分かった気がしました。

その理由として、1)講義は、室内での話だけでなく、ロケやインタビューがあり、工夫されている。また、2)講師自らが、執筆した教科書での45分の授業。教科書が簡潔に要点を押さえて記述され、分かり易い。それ故、3)講義が面白く分かり易い。

このような理由も100歳過ぎて、さらなる学びに関心が向く要因かもしれません。

また、新たな講義を立ち上げるには、教科書の作成も含め準備期間が3年。そして、講義は、4年を目処に総括されて更新。さらに新しい授業科目や内容に進化します。

「不易流行」。放送大学の講義は、時代が変わっても余り変化させない内容と、時代の変化に適応して進化させる内容のメリハリがあります。

さらに、「生涯学習支援番組」として、最近注目されているトピックスや課題等を取り上げた番組があります。

これらの番組には、「大村智博士が語るノーベル賞への歩み」や「新世紀の有機合成」等、10種以上があります。

「♪生きるとは学ぶこと、♫学ぶのは楽しみ♪」「♪生きるとは知ること、♫知ることは喜び♪」。これは、放送大学歌の一部抜粋です。本当にそう思います。

人生百年時代の今、放送大学で心身ともに刺激を受けて日々の生活を活性化し、若返る。今の時代の一つの生き方かもしれません。

放送大学での学びには、学生の皆さんの向学心が、一番ですが、分かりやすい約300科目、多様な授業も魅力の一つに思います。

放送大学の授業は、放送授業、面接授業、オンライン授業の3つがあります。放送授業は、インターネット配信され、何処でも、誰でも、何時でも聴講可能です。

私は今、バス通勤の往復車内で、45分のインターネット授業「文学・芸術・武道にみる日本文化」を楽しんでいます。「何時でも、何処でも、誰でも」学べる放送大学の授業、楽しい学びです。

『二つの鏡』(平澤 興 一日一言)

「鏡には二種ある。その一つは普通用いられている、物を映す「物の鏡」であり、他の一つは心を映す「心の鏡」である」。

「心の鏡には、人間としての鍛錬度が何よりも重要である。真に生涯学習を志しているような人の心は、いくつになっても鋭く、むしろ歳をとるごとにいよいよ鋭くなるが、人生に夢をもたぬような人の心の鏡は、いつのまにか濁ったり、凹凸ができたりする」。

「生涯、希望と夢とをもち続けるためには、この心の鏡は絶対に曇らせてはならぬ」。

放送大学、ご年配の方は、元気に溌剌とされている方が多いと感じます。「心の鏡」が曇っておらず、生涯、希望と夢を持っておられる気がします。元気溌剌、人生百年時代の今、重要に思います。

2020-11-19

武士の開墾地松ヶ岡、萱刈と萱葺き本陣

我が家が鶴岡市松ヶ岡に移住して今年で13年目。毎年、11月中旬は、松ヶ岡最後の奉仕作業、萱刈。

写真は、萱刈前後の萱刈場の一葉。

萱刈は、何時も霙(みぞれ)が舞う寒い時期での作業でした。しかし、今年11月15日は、晴天に恵まれ爽やかな日の萱刈作業、松ヶ岡の皆さんと一緒によい汗を流しました。

写真は、軽トラ部隊と奉仕作業の松ヶ岡の皆さん

松ヶ岡は、明治の初めに約3000人の武士が約300haの荒野を開墾した地域。開墾後、約30戸の家族が住み、集落が始まり、今では約60戸が生活しています。

松ヶ岡の中心地に「本陣」があります。これは、庄内藩第3代酒井忠勝公が1622年庄内入部の際、鶴岡城整備のため建築。その後、1686年に鶴岡市藤島町に移し、藩主が江戸往復の休憩所として利用した建物。

この建物が、1872年松ヶ岡開墾創業に際して松ヶ岡に再移築され、「松ヶ岡本陣」となりました。この本陣は、萱葺(かやぶき)の建物で、毎年少しずつ、萱が葺(ふ)き替えられ、住民は萱刈をします。

松ヶ岡では、萱刈以外にも幾つかの奉仕作業があります。住民が集まり情報交換等をしながら皆で汗を流す共同作業、よいです。

松ヶ岡の各家には、大正15年12月に記され、五箇条から成る「松ヶ岡開墾場綱領」があります。

一、松ヶ岡開墾場は、徳義を本とし産業を興して国家に報じ以て天下に模範たらんとす。

一、気節凌霜天地知の箴は、我が松ヶ岡の精神なり 之を服膺して節義廉恥を振起すべし。

一、少長各其の事に任じ神に祈誓する心を以て其の職責を盡すべし。

一、己を正しくし長短相済し和衷協同徳に業に従うべし。

一、父祖勤労の功を思い勤倹力行創業の目的を貫徹すべし。

「松ヶ岡開墾場は、徳義を本とし産業を興して国家に報じ以て天下に模範たらんとす」、この一文を初めて読んだ時、感動し涙がでました。

世の中にこのような「綱領」を掲げて生活している人々があり、集落が存在することに大変驚きました。このような志、今までも、今も、これからも重要に思います。

「創業以来、松ヶ岡開墾場に移住したのは、自家農業を含む開墾事業に従事するため、これが大義名分であり不文律であった」。

「昭和50年代、経済事情が大きく変化し、松ヶ岡住民の松ヶ岡以外での就職が始まった。松ヶ岡理事会では、この不文律の無理が明白になったので、昭和59年この不文律を廃止した」。今から36年前。大義名分の維持、凄いことです。

よき伝統が色々と残っていた松ヶ岡。「不易流行」、時代が変わっても変えない事と時代に適応して変える事。いい伝統や文化は、次世代に残したいです。

『人間の条件』(安岡正篤:一日一言)

「これがなければ人間は人間でない、というのが本質であって、結局それは徳性というものである」。

「人が人を愛するとか、報いるとか、助けるとか、廉潔であるとか、勤勉であるとか、いうような徳があって初めて人間である」。

「又その徳性というものがあって、初めて知能も技能も生きるのであります」。

まずは、徳性、それから知能や技能。徳性、重要に思います。

2020-11-17

『7つの習慣』、スティーブン・コヴィー

「多くの会社を見ていると、倒産する会社と伸びる会社には、共通の原則がある。倒産する会社は、経営者や従業員に危機感が全くない」。

「一方、成長している会社、成長する会社は、常に構成員が危機感を持っている」。

これは、荘内銀行元頭取故町田睿先生が11年前、山形大農学部で『組織改革と意識改革』との演題で講演された町田語録の一部です。「組織改革は可能だが、構成員の意識改革は難しい」、が結論でした。

その時の講演、町田語録の一部を紹介します。

「倒産する会社の従業員は、忙しい忙しいと自分の仕事のみに集中し、会社の置かれている現状や他の従業員の仕事に関心を示さない傾向がある」。

「意識改革には、良い企業文化のある会社に出向させ、良い風土を学ばせることが必要」。

「良い企業、成長する企業は、社員の士気やモラルが高い」。「リーダーの資質として、本質を捉える知、他者を感じる力、先頭に立つ勇気が重要である」。

「大学におけるリーダーは、一部の人ではなく、学生を育てるとの視点からは、全教員がリーダーだと思う」。

私は、2010年、農学部長の時に3学科から1学科への改組も含めた組織改革を行いました。「組織は変えても意識を変えるのは大変難しい」ことを実感。これは簡単ではありません。

改革だけでなく、変わりゆく環境に適応するには、「使命感、危機感、スピード感」が、重要に思います。

先生は講演会後、何時も懇親会に出席され、さらに多面的に学びました。毎回、講演内容を色々と反省されていたのが、印象深く残っています。

また、先生は、誰に対しても何時も深々とお辞儀をされ、約束時間の15分前には、約束の場所に到着。何時も大所高所から助言をいただき、とても勉強になりました。凄い人です。

懇親会の時、先生に、「最近、読まれた本で印象に残っているのは、どんな本ですか」と、訊きました。そして、コヴィー著の「七つの習慣」を教えて頂きました。

第一の習慣:主体性を発揮する、「自らの行動を選択する習慣」。自分の行動や態度に対しては自分で責任を負うという習慣。率先力を示し、目的を達成するために必要な行動を起こす。

第二の習慣:目的を持って始める、「自らを目的地に導く習慣」。現状を理解し、次の行動を決定する指標として、自らが目指す将来像、目標、使命を明確にする。

第三の習慣:重要事項を優先する、「自己を管理する習慣」。時間や出来事を管理する習慣。自己管理をきちんと行い、本当に重要な事項を優先して計画を立て、実行に移す。

第四の習慣:Win-Winを考える、「相手に対しリーダーシップを発揮する習慣」。相互利益を求める行為で、双方にプラスになる代案を探し、見つからない時は、取引中止を決意する。

第五の習慣:理解してから理解される、「感情移入により相手とのコミュニケーションを図る習慣」。相手を理解することで、信頼を築く。

第六の習慣:相乗効果を発揮する、「協力関係や良いチームワークを生み出す習慣」。互いの相違点を尊重し、相手に敬意を払い、それぞれの主張を混合し合体させ、「新しい何か」を生み出す。

第七の習慣:刃を研ぐ、「自己を最新再生(活性化)する習慣」。自分の肉体、精神、知性及び、人間関係の感情面を磨き、切れ味をよくし、それぞれの能力を高める。 

「7つの習慣」、とても参考になりました。良い習慣は、人生にとり、必要に思います。


『習慣の力』(平澤 興 一日一言)

「世界的に偉い人というのは生涯人間として鍛え上げた人です。生まれつきが違っておったわけでない」。

「つまり習慣が身体につけば自然にそうなりますから、だんだん歳をとるにしたがって、若い時に心がけておったものが、しまいにはもはや、そう骨を折らずにできるようになります」。

「しかし、それは長い長い人生の努力と言いますか、練習であります」。

あることが習慣になる。これは簡単なようで、簡単ではありません。良い習慣、とても重要に思います。ある良いことを習慣にする、必要に思います。

2020-11-15

商船士官を夢見た作詞家、星野哲郎先生

「♫波の谷間に命の花が ♪ふたつ並んで咲いている ♪兄弟船は親父のかたみ 

♫型は古いがしけにはつよい おれと兄貴のヨ夢の揺り篭さ」

これは、星野哲郎作詞、船村徹作曲、鳥羽一郎さんのデビュー曲、「兄弟船」。

星野哲郎作詞、船村徹作曲のコンビは、昭和の名曲を数多く作りました。

お二人が作られた歌は、春日八郎、北島三郎、美空ひばり、島倉千代子、水前寺清子、都はるみ、美川憲一、小林旭、渡哲也等々、錚々たる昭和の歌手のヒット曲です。

星野先生は、演歌を中心に約4000曲を作詞、数々のヒット曲を生み出しました。

私の商船高専の恩師、針本多久男先生。私が学生当時の大島商船は、全寮制で約500名の若人が寮生活。その寮の裏が教員官舎でした。

針本先生には、色々と「ご指導」を受けました。夜中に「ちょっと官舎に来てくれい」との呼び出しが、時々ありました。官舎では、お酒をいただき四方山話、多面的な人生勉強のひと時です。

訪問して何時も気になったのが、客間の星野哲郎先生の色紙と写真。ある時、「先生、星野先生の写真と色紙が、何故、あるのですか」と、訊きました。

「私とテツロウは、清水高等商船1期生、同期だ。テツロウは、ここ大島の生まれで、この官舎にも何回か来た。俺の親友だ」とのこと。

日本を代表する作詞家、星野哲郎先生が、商船士官を夢見て高等商船で学ばれたのを初めて知りました。病気で船会社を辞め、色々と苦労されて作詞家になられたようです。

今日は、星野先生の親友で私の恩師、針本先生を紹介し、人の魅力を考えたいと思います。針本先生は、一言で紹介すると、人として、男として魅力のある先生。これまで会った最も魅力的な人です。

魅力は、その人から出る「香」。魅力の要因を色々と並べても「魅力のある人」の実態は語れず、「香」は、伝わりません。いくつかのエピソードを紹介しながら、私が感じた魅力の一端でも伝われば嬉しいです。

写真は、我が母校、大島商船の本館と学生寮


先生に出会うと大島商船の「ヤンチャ坊主」が、「心身ともに姿勢を正す」。このような先生でした。これ凄いことです。

これだけの記述ですと、固い先生の印象ですが、愛嬌もある先生でした。松下幸之助さんは、リーダーの資質に「愛嬌」を挙げています。愛嬌、私も重要に思います。

ある夜8時頃、「安田と柳、針本先生がお呼びなので、大至急、教員官舎に行くように」との寮内放送。友人の柳君と「お前何か心当たりがあるか」と、お互い話しながら先生宅を訪問。

先生は、すでに技官の方とお酒を呑まれ「お前達2人は、俺の電気工学が満点だった。今夜は、一緒に呑みたい」との呼び出し理由の説明。

30分くらい一緒に呑んだ後、「私と岩政は、これからキャバレーに行って呑んでくる。お前達は、うちのおばさんと呑んでくれ。30分したら帰ってくる」。

「オーイ、俺の一張羅を出せ。お前達も連れて行きたいが、今日は我慢せい」と出発。先生達は、30分後に上機嫌で帰宅。その後、さらなる楽しい宴。

また、ある夏の夜、寮の屋上で友達と鍋を作り星観の宴。午前2時頃、鍋の具がなくなり、「針本先生を起こして、鍋の具を貰う」ことを計画。先生宅の玄関をドンドンと叩き、先生と奥様を起こしました。

「先生、鍋の具がないのですが、何かありませんか」とお願い。「おおう、よく来てくれた」と一声。そして、奥様に「冷蔵庫の物をみんな渡せ」と指示。その後の宴は、さらに盛り上がりました。

4年生の初夏、私は卒業後、大学進学を考え、先生に相談。先生は、私の話を静かに聞いて、「安田、大学は、そこで何もしなくても行く価値がある。よく決断した」と、微笑んで話されました。

そして、「実は、お前に相応しい、小さな船会社をお前の就職先に決めていた。誠に残念だ」。「そうか、安田が大学に行くか、今日はめでたい。よし、今日はお祝いで呑もう」と嬉しそうに話され、痛飲しました。

また、先生は毎朝5時に和服を着て、海沿いの大島商船海岸通りを懐手し、海を眺めながら散策。

ある呑み会で、そのことを先生にお話したら、「安田、そうか、毎日見てくれていたか」と大変喜ばれました。和服姿に懐手の散策が、とても似合い格好良かった。それ以降、和服を着ての朝の散策、これは私の小さな夢になりました。

また、3年生の時に人生に悩み、先生を訪問。「私も色々と考え悩んで日々を過ごしている。それ自体はとてもよい事に思う。私は、勝一郎から学んでいる」と、亀井勝一郎を奨めていただきました。

先生は、私が卒業して数年後、50歳過ぎ癌で亡くなりました。先生の年を超えた今、先生の魅力の足下にも及びません。

先生と一緒に過ごした短くて濃い日々。それらの日々は、私の脳裏に今までも、今も、これからも鮮明に残り、一生忘れません。「先生の魅力、人の魅力って何だろう」と時々思います。

大島商船の「ヤンチャ坊主」が先生に会うと「心身ともに姿勢を正す」。これは、先生が、全ての「ヤンチャ坊主」の事を親身に考えていたからです。私が例外ではありません。

これは簡単なようでそうではありません。誰に対しても誠実で、愛嬌があるというのは、魅力の要素かもしれません。凄い先生、出会いに感謝です。

「♪函館山の いただきで ♩七つの星も 呼んでいる ♫そんな気がして きてみたが♩  灯りさざめく ♬松風町は 君の噂も きえはてて ♪沖の潮風 こころにしみる」

帰宅前に時々立ち寄る小さな食料品店、何時も有線放送で昭和の歌謡曲が流れています。一昨日は、「函館の女」。そして、作詞された星野先生を思い出し、大島商船や針本先生との日々が蘇りました。

こんな出会いや思い出、人の魅力等を次世代の人にも伝えたいとフト思います。

写真は、学生時代にお世話になった練習船大島丸

『光が出る人』(平澤 興 一日一言)

「私は誰もが見てびっくりするような偉大さというのは、実はさほどたいしたものではないと思うのであります」。

「ちょっと見るとたいしたことない、いっこうに偉そうにも見えないけれども何かことがあると、そのたびごとに光が出るような人、そういう人が本当に偉いのではないかと思うのであります」。

針本先生は、「光が出る人」に思います。

2020-11-13

留学生からの学びと涙の別れ

初めてインドネシアの首都ジャカルタ、スカルノ・ハッタ国際空港に着陸した時、南国の何とも言えない「よい香り」に感動しました。南国、いいなーと強く思った。

私は、ブラジルで大農園経営を夢見て、大学を選び、サークルは「熱帯農業研究会」に入部。それゆえ、熱帯を訪問し、生活するのは、一つの大きな夢でした。

その夢の熱帯に初めて降り立った時は、「やっと熱帯に来た」と、一人感慨にふけりました。熱帯の国、インドネシアへは、10回以上出張し、2つの大規模な国際共同研究を実施。


さらに、インドネシアから5名の留学生と一緒に博士論文の研究を楽しみ、彼らから多面的に学び、刺激と勉強の日々を過ごしました。全員とても優秀でよく研究し、私と我が研究室を支えてくれました。

正月には、毎年、我が家で留学生と食事会。お雑煮やおせち料理を一緒に食し、私の子供達も含め百人一首、坊主めくりやトランプを楽しみました。みんな陽気で元気な仲間、楽しいお正月の恒例行事。

ジャカルタから飛行機で東に1時間、インドネシアの古都、ジョグジャカルタに到着。ジョグジャカルタには、約3000のインドネシアの大学、ランキングトップのガジャマダ大学があります。私が博士課程を指導した5名の留学生は、全てこの大学の卒業生。

彼らから国際及び国内シンポジウムに特別講演者として招待され、シンポやインドネシアも楽しみました。懐かしい思い出です。

2年前にジョグジャカルタで山形大同窓会インドネシア支部を立ち上げました。その時は、私の元指導学生の多くが家族と一緒に参加し、とても楽しいひと時でした。

博士号を取得した学生諸君は、何時も3月末に母国に凱旋帰国します。3月は、毎年、別れの季節。


女子学生のデナさんもその一人。鶴岡に6年滞在した彼女の送別会を思い出します。研究室の学生諸君が一人ずつデナさんの思い出を語り、その後、教員、最後はデナさん。のっけから涙モード。名前に似ず心優しい3年生の女子学生、ヒグマ君が、「年を取ると涙もろくなります」と、涙をこぼしながらデナさんの思い出を話す。「馬鹿者、ヒグマ。若いヒグマがのっけから涙を流してどうする」、と言いつつも、こちらも涙腺が緩くなるのを感じ、何となく危ない雰囲気。 

8年前のある日、デナさんが私の部屋に研究討論に来て、それが終わり帰る時に一瞬立ち止まり、「先生、研究とは関係ない質問をしていいですか」と聞きました。「いいよ、何だい」。「先生は、何時もエネルギッシュで、私に元気を与えてくれます。先生と話すと何時もエネルギーをもらえます。何故、先生は何時もエネルギッシュなのですか、どうしたらそうなれるのですか」。

全く予期せぬ質問。「私は自分がエネルギッシュだとは思わないし、私も悩む時があれば、落ち込む時もある。その質問には上手く応えられない」。「でも、私が学んでいる人の生き方は、参考になるかも知れない」と、稲盛塾長や中村天風先生及び安岡正篤先生から学んだ教えや考え方等を少し紹介しました。

「生きる目的により人の生き方、人生が変わる。志を高く持ち、世のため人のために役立つことを行い、常に喜びを心に描く。そして、感謝の気持ちを忘れず、物事を楽観的に考える。人生は、心一つの置きどころ」。

「そうすると宇宙霊(神仏)と一体になり元気が出る、と言われている。私もそう思う」。デナさんは、少し分かったような感じで帰りました。 

デナさんの送別会。私が話す番となり、まず、「米国では、卒業を Commencement(出発)と言う。日本での6年間の経験を活かして、二度ない人生を楽しみ、色々と新たなことに挑戦する人生を歩んで下さい。今日から新たな人生に向けての出発です」、と微笑みながら余裕を持ち順調な出足。

デナさんへの餞(はなむけ)に3つの話を準備し、さて、それを紹介しようと一呼吸。これが間違い。

一呼吸の間に、13年前、共同研究のためインドネシアに行き、デナさんと初めて会った時、「私の処で博士号を取得したい」と、彼女が言った日から13年の日々が走馬燈のように浮かびました。

思いもかけず急に涙が溢れ出し、言葉がでません。平常心、まだまだ修業が足らず、未熟者を痛感。

最後にデナさんが、鶴岡での研究生活や学生諸君との思い出を語り、私との研究生活等を紹介。

「先生は、一度も私に一生懸命勉強せよとか、一生懸命研究せよとか言わなかった。何時も研究生活や日本での生活をしっかり楽しみなさいと言ってくれました」と話し、前述の私への質問と私の応えを紹介。

勿論、デナさんも話しながら大泣き。教員は、学生諸君への教えより、学生諸君から学ぶ事の方が多い。また教職は学生諸君から多くの感動をもらえる有り難い職に思います。このようなひと時は、まさしく教師冥利につきます。アルバムで「留学生と過ごした懐かしい昔」を発見し、色々と思い出しました。デナさんや研究室の学生諸君に感謝です。

写真は、スカルノ・ハッタ国際空港の出発ゲート搭乗前の一葉です。


『教育の役割』(平澤 興 一日一言)

「教育とは、火をつけることだ。教育とは、火をつけて燃やすことだ。教えを受けるとは、燃やされることであり、火をつけられることです」。

「相手の心に火をつけることは、ただ一方的な命令やおしつけでできるものではなく、こちらも燃えて相手と一つになり、相手のかくれた可能性を見いだして、これを燃やすことである」。

「相手のかくれた可能性を見いだして、これを燃やすことである」、これは教育だけでなく子育てを含め、人を育てることに通じます。簡単なようでそうでないかもしれません。

2020-11-11

木の枝はなぜ美しい、重野先生の思い出

葉を落とした広葉樹、冬の木々の美しい枝を見ると何時も重野先生と「木の枝はなぜ美しい」を思い出します。



「今の私は日々のいとなみに追われ、疲れ、あえぎながら、多くは慌ただしく見て過ぎるだけの草木の姿に強く心をひかれる。ことに冬空に思い思いの線を描いている裸の枝々の美しさに」。

「なぜあの通りの枝ぶりになっているのか、ならなければならなかったのか?私はその答えを五年前の冬の夕方フッと発見した」。

「運命と環境と戦い、また随順することで木は内なる生命を伸ばしてゆく、そしてその仕方には個性がある」。

「ざくろにはざくろの枝振り、松には松、柳には柳の・・・だが、どの枝もみな、長い時をかけて少しずつ、少しずつ、一生懸命に伸びてきた生命が全身で描いた線なのだ」。

「一心に幸福を求めて伸びる木の生命の強いリズムを持ったメロデイの流れが、そのままそこに凝っているのだ」。

「だから私たちは、環境や運命と取り組んで自己を実現してゆこうとしている、私たち自身の生命の願いをそこに聞く思いがして、感動するのだ」。

「自分と同じ生きものが立派に生きてきている姿を見、共通の大きな一つの生命を生き生きと感じることは、私たちに生きることへの励ましと親愛の喜びを与えてくれる」。

「このささやかな発見は私を幸福にしていた。その事実がまた私を幸福にした」。

先生の「木の枝はなぜ美しい」、一部抜粋です。

「『青丹(あをに)よし奈良の田舎』といったら、重野が『阿呆によし奈良の田舎』と変えて言った。失礼な奴だ。然し文章からいえば、『阿呆によし』ならば『奈良の都』とすべく、『奈良の田舎』ならば前を『青丹によし』とすべし。何れか一つずつに使わなければ意味がない」。

志賀直哉、随筆「青臭帖」。「重野」とは、重野先生。当時の志賀先生のお住まいは、奈良の田舎だったとのこと。

「志賀先生が、よく重野がとおっしゃっていた。それが旧制広島高等学校の大先輩、重野英夫さんだと分かったのは、かなり後だった」。作家の阿川弘之氏が重野先生遺稿集「重野英夫作品集」、「序に代へて」の一部抜粋。志賀先生とは志賀直哉先生。

重野先生は、60歳から2年間、大島商船高専のドイツ語の講師として赴任された。私は1年生の時にお世話になりました。透き通るような色白の肌、何時も微笑を含んだ笑顔が忘れられません。貴重な縁でした。

私が帰省した時に、一度、列車で同席する機会があり、先生が下車されるまでの30分、色々な話を楽しみました。先生は、16歳の私を大人として扱って下さって、話が弾みました。私が石見神楽を紹介したら、とても興味を持たれ、是非、一度、観たいとおっしゃいました。

また、「何時もスケッチブックを鞄に入れ、素晴らしい風景に出会うと、何はさておき、その風景をスケッチします」、と話されました。小説や随筆だけでなく、多くの絵画も残されています。




列車で同席した僅か30分の会話が、50年経った今でも鮮明に記憶に残っています。当時、16歳の私が、60歳の先生に人としての瑞々(みずみず)しさと素晴らしさを感じ、一瞬で尊敬の念を抱きました。

1年生最後の授業で癌が心配だと話され、その後の精密検査で問題なしの結果をとても喜んで紹介。しかし、1年後に癌で亡くなられ、とても驚き残念でした。

友人と2人でお墓参りに行き、その時、ご家族からいただいた冊子が、「重野英夫先生を偲んで」。この冊子で、「木の枝はなぜ美しい」を知りました。

先生は、東大独乙文学科を卒業後、作家を志し、志賀直哉先生に師事。志賀先生から高い評価を受け、発表するなら出版社を世話するといわれた小説もあったそうです。

しかし、家庭のご事情により作家は諦め、郷里岩国の高校で教員生活、先生32歳の時。ある高校の文芸部顧問もされ、徹夜で文芸部誌の原稿を推敲。

同僚の先生が、お体が丈夫でない先生に「たかが高校の文芸部誌の原稿書きに、そこまでエネルギーを費やさなくても」と助言。先生は、「文学は、そんなものではない」と、静かに諭されたとのこと。

何時も笑みを絶やさない優しい重野先生、厳しさの一面を見た気がしました。

先生の没後20年、約450頁の「重野英夫作品集:木の枝はなぜ美しい」が出版されました。それを再読。教育も含め多くの事柄に深い洞察と思慮深さを感じます。驚愕です。人としての凄さと深さ、「本当の人」は、自分を語らないのかな、と思いました。

月山道のブナを含めた広葉樹、美しい木の枝が、今年も私に人生を語っています。今年の冬も重野先生の優しい笑顔を思い出しました。人との出会い、不思議に思います。重野先生に感謝です。

『一番尊いもの』(平澤 興 一日一言)

「私は人間に一番尊いのはなまの純粋さであり、濁りのない単純さであって人間にとって、これほど尊いものはなかろうかと思うのです。これはどの方面でも超一流の人にはあるようです」。

重野先生、本当に純粋な方だったと思います。

2020-11-09

京都大学16代総長、平澤 興先生

「平澤先生は、ホテルで藤尾氏を見るなり手を握り、「現代の覚者たち」から得た感動を尽きることなく述べられた。その間約1時間、藤尾氏の手は先生の手に握られたままだった」。

「先生の熱い思いが藤尾氏の全身に伝染し、強い感激に染め上げられた(平澤興一日一言「あとがき」より、一部抜粋)」。

1988年、「月刊致知」創刊10周年記念パーティー、「現代の覚者たち」が記念品として出版され、参加者に贈呈。平澤先生もパーティーに出席され、その翌日に「伝えたいことがあるので、ホテルまで来てもらえないか」と、致知出版社社長で編集長、藤尾氏に秘書から電話あり。

そして、藤尾氏がホテルで先生に会われたときの話が、上述「ホテルで藤尾氏を・・・」の文章です。昭和60年、藤尾秀昭社長38歳、平澤興先生85歳。藤尾氏が、初めて先生に会われた時のことです。

私は、2018年9月、東京での致知出版40周年記念講演会に出席しました。第3講で、藤尾氏が「致知の道―40年を歩みきて」の演題で講演され、安岡正篤、森信三、坂村真民、平澤興の4先生を紹介。その時、初めて平澤先生を知りました。

「人は単に年をとるだけではいけない。どこまでも成長しなければならぬ」が、その時に紹介された先生の箴言です。

東京から鶴岡に帰り、ネットで平澤先生の著書及び先生に関連する書を全て購入し、読み耽りました。それ以来、先生の生き方や考え方を学び続けています。

先生は、大正9年(1920年)京都帝国大学医学部に入学され、大学での勉強は、命がけでやろうと一大決心。

大学では、まず講義を聴き、第二に先生が示した外国の参考書を原書で読み、第三に、講義と参考書で十分考え、自分自身のノートを作る基本方針を策定。

しかし、大学では実験もあり、講義に出て原書を読んでノートを作るのは時間的に不可能。「自分にした約束ができぬようでは、人間に値するのか」と苦悩。そして、煩悶は神経衰弱、不眠症になり登校拒否。

この煩悶から命を断とうとして1年生の12月に故郷、新潟の寒村に帰省し、木枯らしが吹きすさぶ雪原を彷徨。その時、ベートーヴェンの救いの声がドイツ語で聞こえた。

ベートーヴェンは、20歳代で聴覚を失い、25歳の時に自らの命を断とうとした。

そして、ベートーヴェンは、自分に向かって、「勇気を出せ、たとえ肉体にいかなる弱点があろうとも、我が魂は、これに打ち勝たねばならぬ」。

「25歳だ、そうだ、もう25歳になったのだ。今年こそ男一人本物になるか、ならぬかを決めねばならぬ」と、叫んだそうです。

これは、ベートーヴェンのある日の日記の一節。「あのベートーヴェンにして、なおかつ然り。まして自分のごときぼんくらが迷うのも無理からんなあ」。そう諦めがついて、先生は、文字通り命がけの勉強を始めたとのことです。

そして、先生は20歳の元旦未明に起き、天地神明を拝して自らの人生の「座右の銘」を墨書。それを指針として生活されました。

その最後に、「進むべき 道は一筋、世のために いそぐべからず 誤魔かすべからず」と記されています。

「人生は、にこにこ顔の命がけ」、「生きるとは燃えることなり」、「生きよう今日も喜んで」。毎朝、起きた時や何かあった時に口ずさむ、平澤先生の3つの箴言です。

『愚かさの尊さ』(平澤 興 一日一言)

「若い頃は正直のところ、私自身も自らの間ぬけさ、要領の悪さにいや気がさしたりしたようなこともあった」。

「だが、年をとるほどに「いやいや、そうではない。お前に最も大事なのは、その間ぬけさだ。そのお人よしだ。そのうしろにあるまごころだ。もっともっと深く掘りに掘って、徹底的に頑張ることだ」。

「そんな内面からの声を聞き、「やはり、そうだ。愚かなままでいいのだ。真理の追究そのものに随順する徹底的な愚かさこそ、賢さなどよりはるかに尊いものなのだ」―そんな思いで今まで生きてきた」。

平澤先生、人としての間口の広さ、奥行きの深さ、味わいの深さを感じます。凄い先生です。

2020-11-07

肌色、黒色、緑色のアマガエル、体色変化

「赤いきつね」と「緑のたぬき」、どこかのメーカーのカップ麺の名前。この赤いきつねと緑のたぬきではありませんが、肌色と黒色と緑色のアマガエルが、毎日通勤する高速バスのバス停近くのトイレで、私の帰りを待っていました。

本日は、「このアマガエルの体色変化」に関連したお話をご紹介しましょう。

山形駅から高速バスで1時間半、「庄内あさひ」のバス停で下車。まず、訪問するのが、トイレです。このトイレの手洗い場や窓などにアマガエルがくっ付いています。

このアマガエルが、色と黒色と緑色です。肌色の壁には肌色の体色個体、黒い窓には黒い個体。しかし、白っぽい手洗い場には緑の個体です。



5日間、毎日、トイレで観察しましたが、前述の3つの場所でのアマガエルの体色に変化はなし。

3匹のカエル、個体の識別なしで、正確には、3つの場所の色違いのカエルが、5日間同じ個体であったかは、不明です。白っぽい手洗い場の「緑君」が気になりました。体色を変えない「頑固君」か?

大学院時代に友人達と「An Introduction to Behavioural Ecology(行動生態学入門)」を輪読しました。雄ガエルが「ゲコゲコ」鳴くと、雌ガエルがその鳴き声に誘引されて雄ガエルの近くに来ます。そして、「ゲコゲコ」鳴いた雄ガエルが雌と交接する。

しかし、よく観察すると小さくて鳴かない雄ガエルもいる。今までは、この鳴かない小さな雄ガエルは「妙」な奴とレッテルを貼られてお仕舞いでした。

行動生態学では、鳴かない小さな雄は、鳴かない何か戦略があるのでは、と考えます。

鳴かない小さい雄ガエルは、鳴く大きな雄ガエルの近くにいます。そして、雌が、一所懸命「ゲコゲコ」鳴く大きな雄ガエルの近くに来て、大きな雄が油断している隙に、小さな雄はサッと雌と交接する。

大きな雄と小さな雄の鳴き声合戦を比較したら、小さい雄の負け。小さい雄ガエル、鳴くのは止めて、俊敏な動きでの横取り交接、ムムムムム。

背景が白でも体色を白くしない「緑君」。「頑固アマガエル(?)」の戦略は、何かなとフト考えました。背景の色と類似した色への体色変化は、捕食者から発見されにくい利点がありそうです。

また、餌からも発見されにくそうで、餌を捕食することは容易かもしれません。

体色変化にコストはかかるか?体色変化のない個体があるか?体色変化のない個体は、何か他の戦略があるか?捕食者が多い地域が、少ない地域より、体色変化が発達しているか?アマガエル以外のカエルでも体色変化はあるか?等々と色々な疑問がわきました。

アマガエルは、我が安田農園に沢山いて、農園の草刈り中にピョコピョコ出てきます。アマガエルを使って体色変化の色々な実験が楽しめそうです。

おそらく、アマガエルの体色変化は多くの人が知っているので、研究も進んでいるでしょう。研究の進捗にも興味を持ちました。

何時もトイレで待っていたカエル君達も寒くなった今、トイレから消えました。土の中に潜って春までノンビリ眠っているでしょう。土の中では、何色で越冬しているのかな。気になる処です。「頑固な緑君」、来年も会いたいですね。

昨日、朝の農作業中、日の出に遭遇、午前6時35分。「カッシャ」と一枚撮りました。

一昨日は、霰(あられ)の中を「忠犬クニオ」と散歩中にが出ました、「カッシャ」です。

『学問は無限』(平澤 興 一日一言)

「一つの発見はむしろ無数の疑問を起こさしめるものでありまして、この意味では学問は無限に深いと言ってよいでありましょう」。

一つの現象にもそれを起こさせている要因は、色々と考えられます。それを考えることは、楽しく興味深いことです。また、考えられる仮説を実験により検証するのは、面白くワクワクします。