2021-09-29

秋晴れの佳き日、放送大学学位授与式

私達は、幾つかの節目を経験し、長い人生を歩んでいます。自分の人生を今振り返ると、その節目の大きな一つが、大学卒業に思います。

目的を持ち大学に入学し、学生時代に、喜びや悲しみ、さらに多くの苦労も経験。そして、人間的に成長し、学窓から社会へ巣立ちます。

9月26日(日)、放送大学山形学習センターで学位授与式があり、23名の方がご卒業されました。本日は、学位授与式について少し紹介します。

放送大学では、大学の学部に相当するのがコースです。6コースあります。

2名の方が6コース全てを修了され、名誉学生の称号が付与されました。さらに、3つのコースを修了された5名に、生涯学習奨励賞の授与を行いました。当日は、10名がご出席

私は、昨年10月から放送大学の学生になり、毎学期1科目2単位ずつ受講しています。そして、学期末の単位認定試験。単位取得の大変さを経験しました。

124単位が、卒業に必要です。私には、卒業は高根の花。6コース全て卒業された方は、本当に凄い人に思えます。

学位授与式では、三つのことをお話し、式辞としました。その一部を紹介します。まず、卒業は、新たな挑戦に向かっての出発である。次に、二度ない人生で教養を身に着ける重要性。最後に、生涯、学び続ける習慣の必要性。

「卒業は、新たな挑戦に向かっての出発に思います。米国では、卒業のことを、Commencementと言うそうです。これは、出発とのことです。私も卒業は、新たな出発に思います」。

「是非、卒業を機会にさらなる挑戦、新たな出発を期待しています」。

二つ目は、二度ない人生で教養を身に着けることの重要性を述べました。「教養学部一学部の放送大学の特徴は、卒業までに多面的な教養を学び、それを身につけ卒業することです」。

「これから人生百年時代に向かい、教養はとても重要で、それは、二度ない人生を豊かにします」。

「他大学にない、多様で深い教養を身につけ放送大学をご卒業されることに、誇りと自信を持って頂ければ嬉しく思います」。

「東洋哲学の泰斗、安岡正篤先生は、学問し、教養を身に着ける意義を「荀子」の箴言を用い簡潔に述べられています」。

「夫(そ)れ学は、通の為に非ざるなり。窮して苦しまず、憂えて意(こころ)衰えず、禍福終始を知って惑わざるが為なり」。

「学問するのは、立身出世等のためではなく、どんな心配ごとがあってもへこたれず、何が禍いで何が幸福かを知り、人生の複雑な問題に直面しても、惑わないためである」。

「学問は知識を獲得するだけでなく、人間を作ることであるとの教えです。学問をし、教養を身につけ人間を作る。重要に思います」。

最後に、生涯、学び続ける習慣の必要性に触れました。「幕末の儒学者、昌平黌の総長、佐藤一斎先生の著書に『言志四録』があります。これは、西郷隆盛(南洲翁)の座右の書です」。

「その中に、三学戒という箴言があります。二度ない人生には、生涯学びの習慣を持つことが、必要であると言うのが核心です。私もそう思います」。

「少(わか)くにして学べば、壮にしてなすあり。壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず」。

「放送大学の学生の皆さんは、すでに学びの習慣を持っています。是非、それを継続して下さい。継続は力です」。

放送大学では、9月と3月の1年に2回、学位授与式があります。毎回、卒業生の皆さんに敬意を表し、学位授与式の開催を感謝しています。卒業生の皆さん、おめでとうございます。

『苦悩は成長の条件』(安岡正篤 一日一言)

「人間は苦悩によって練られてゆくのでありまして、肉体的にも精神的にも人間が成長してゆくために苦悩は欠くことのできない条件であります」。

「そこで苦悩に敗れたらおしまいですから、過失や失敗のために取り乱されないように心がける必要がある」。

「自分の過失を知るということは、自己教育の最も重要な方法の一つであるとともに、人を教育する者の常に注意すべきことであります」。

「物心は相まって自己を完成する。人格も亦、境遇と相作用して進歩するものである。随(したが)って困難な境遇は常に人格の試練を意味し、又能く人格の価値を表明する」。

『苦悩は成長の条件』、心に響く箴言です。

2021-09-27

趣味の農業、「イチジク」編

果物の里、ここ松ヶ岡、庄内名物の柿が色づき始めました。我が家でも柿の木があり、収穫を楽しみにしています。今、収穫を楽しんでいるのは、イチジクです。


我が家には、果樹が13種類ありますが、種ごとの木の本数は、1)スモモ、2)ブドウ、3)イチジクがベスト3です。イチジクは3本。

我が家の果樹園の特色は、果樹の種類数が多く、多様性が高いことです。生産効率は悪いですが、「趣味の農業」、果樹の多様性を保ち、農薬散布をせずに果樹を生産しています。

5年ほど前にイチジクの木を購入。熟成すると実の表面が小豆色になる通常のイチジクを想定。

しかし、購入したイチジクは熟成しても実の大きさが、通常のイチジクの1/3 程度、表皮は薄い黄緑、小豆色ではありません。

「こりゃ、失敗したな。苗木を購入する時、もう少し吟味すればよかった」と、反省。一方で、このチビイチジク「怪我の功名(?)」的なこともあります。


熟れると小豆色になる通常のイチジク。鳥は、熟れて小豆色になったイチジクを食べます。一方、チビイチジク、熟成しても小豆色でなく黄緑、鳥の摂食はほとんどありません。

色だけでなく、葉が繫茂した中にチビイチジクがあり、鳥はイチジクを発見しにくい。このチビ太郎、結構甘くて美味しい。

毎朝、腰に付けた魚籠(ビク)にイチジクを収穫しますが、ビクが重くて腰が抜けるくらいの収穫量。イチジクは、生食も良いですが、煮てジャムとして食するのも美味しいです。

今年、知り合いから通常のイチジクより一回り大きい「ジャンボイチジク」の栽培を勧められました。来年は、この「ジャンボイチジク」の苗木を購入予定。

一般的に果樹の無農薬栽培は、難しいですが、イチジクは木の中に潜り込むカミキリムシさえ退治すれば、農薬散布は不要に感じます。

このカミキリムシは、木に穿孔し、その小さな穴から木くずを出すので、発見と防除は容易です。

木の上で発見した成虫は、「名刀正宗」の剪定バサミで「チョッキン」と一刀両断。そして、木の中にいる幼虫は、「キンチョールE」のスプレーで一発殺虫。

害虫の防除をするたびに大学院でお世話になった農薬学が専門の教授の一言を思い出します。「安田君、生物的防除のような役に立たん研究は止めて農薬を使いなさい。農薬を。簡単やないか」。

恩師は、昨年の暮れに94歳で亡くなられましたが、大学院や学位取得後も色々とお世話になりました。

イチジクから害虫防除になり、大学院の恩師を思い出しました。趣味の農業、朝からいい汗を流し、作物の生育や収穫から元気をもらって楽しんでいます。味覚の秋、いいですね。

『気力旺盛』(安岡正篤 一日一言)

「気力が旺盛であるということが個人的にも民族的にも最も大事なことで、気力を弱くしてしまったら、教養が多少あろうが、頭脳・知性が優れていようが、技能が発達していようが問題でない」。

「気力というものが一番大事で根本的なものである。日本民族もこの気力を失わなければ、気力が旺盛になれば、いろいろの欠陥は少しも苦にする必要はない」。

「反対にどんな長所があっても、例えば知性だ、技能だ、その他教養があるといっても、気力が旺盛でなければ個人も国家も発展しない」。

何時までも『気力旺盛』でありたいと思います。

2021-09-25

学びのサロン、『アリと植物の相思相愛?』

私が担当する「学びのサロン」、「ジミな昆虫の生き方を通じ、研究の面白さを学ぶ」を9月中旬に開催。

この「サロン」は、岩波ジュニア新書『博士の愛したジミな昆虫』をテキストに、担当者が研究内容を紹介。

今回は第5回。第2章「共進化が生んだ「オンリー・ユー」」、その2「相思相愛?アリと植物のコミュニケーション」。

著者は、生物多様性が高い熱帯雨林、ボルネオのジャングルで野外調査を実施した女性研究者。

アリと共生関係がある「アリ植物」、オオバギとアリとの種特異的な共生関係を解明した研究の一部を紹介。

この共生関係は、アリがオオバギを餌として摂食する昆虫を攻撃して撃退し、それに対してオオバギはアリの巣や餌を提供。

アリには社会性があり、繁殖のみに従事する女王アリと働きアリが社会を形成。

まずは、「相思相愛のなぞー新女王アリの選択 」として、新女王アリが寄主植物のオオバギを選択するのは、オオバギの表面物質と野外の光条件によることを紹介。

そして、伐採などが繰り返される2次林では、オオバギと共生アリの種特異的な共生関係は崩壊し、環境の変化で新たな共生関係が開始される「相思相愛が終わる時、始まる時」に続く。

さらに、「オオバギをとりまく、多種多様な昆虫類」では、アリの防衛を避けてオオバギを摂食するチョウの幼虫がいることに触れる。

最後は「植物アリの聡明さ、健気さ」。ここでは、オオバギ・アリ・カイガラムシの関係に触れ、オオバギは、アリから防衛され、アリはカイガラムシから蜜をもらうことを紹介。

アリはカイガラムシが大発生し、オオバギが枯死しないようにカイガラムシ数を制御する「聡明さ」。オオバギが伐採されてもアリはそこを離れない。ヨレヨレになりながら、そこで滞在し、新たな茎を待つ「健気さ」。

私が担当する「学びのサロン」では、担当者が簡潔に内容を紹介し、その後、意見交換。「通学制大学」での学生さんは、20歳前後が主ですが、「通信制放送大学」、ほとんどの学生さんは、経験豊富な社会人。

この意見交換、テキスト内容とは関係ない多様な意見が出て、話が発散することもあります。まさしく「学びのサロン」。楽しく多面的に学べるひと時。面白いです。

意見交換の一部を紹介します。

「この章の表題、相思相愛とは、何を意味しているのか」。「アリは縄張りを作るのか」。

「色々な種類のアリがいてアリはとても興味深い。例えば、ハキリアリは、アリタケを栽培する。サムライアリは、クロヤマアリの卵や幼虫を奪ってきて奴隷にする」。

「人間は地球環境を破壊しているが、昆虫は種数や個体数が多くても環境破壊はない」。

「テントウムシダマシの名前の由来は?なぜテントウムシダマシと言うのだろう」。

私が即答できない質問もあり、それらは次回までの宿題。「学びのサロン」、毎月一度、学びと刺激になります。

『学べば学ぶほど』(平澤 興 一日一言)

「世の中には、説明のできないような不思議がたくさんあります。全てが科学で解決できるなどということは、間の抜けた科学者の言うことであります」。

「真に科学を、学問を研究した人は、分からないことがだんだん増えてくることをしみじみ思うものです。学問をして賢くなると思うような学問の仕方は、本当の学問の仕方ではありません」。

「学問をすればするほど、一つ分かれば、十ぐらい分からんのが出てきますから、他の人よりは深く知っても、自分として主観的には分からんことの方が段々増えてくるのであります」。

「学問をすればするほど、世の中に当たり前なんてことはなくなり、全てが不思議になるのであります」。

『学べば学ぶほど』、同感です。

2021-09-23

「赤とんぼ」の群飛、秋です

今、松ヶ岡の我が家の周辺では、「赤とんぼ」が群飛、秋です。6月に羽化した「赤とんぼ」は、山に上がり越夏し、秋に里に下りてきます。「赤とんぼ」を見ると何時も『童謡 赤とんぼ』を思い出します。

♪夕焼小焼の、赤とんぼ♪ 負われて見たのは、いつの日か♪ 懐かしい、良いですね。

ふと上空を見ると10匹のトンボが電線に止まっています。


さらに果樹園にも多くの「赤とんぼ」が群飛。柿の木に多くの「赤とんぼ」が止まっていました。

子供の頃、島根の山間にある我が故郷、毎年秋には、我が家の畑にもの凄い数の「赤とんぼ」が飛んでいました。それを思い出すと子供の頃がすぐに蘇ります、不思議です。秋と言えば「赤とんぼ」。

30年以上も無農薬・無肥料・無除草剤による「自然共生田んぼ」でお米を作っている知り合いが、ある時、「何故トンボをDragonfly と呼ぶのか分かった」と教えてくれました。

「Dragon」は龍で、「Fly 」は、飛ぶ昆虫。「Dragonfly」は、龍のように飛翔する昆虫。

「6月早朝、イネに付いた何百ものトンボの蛹が一斉に羽化し、それが大空に飛んで行く。その姿は、まさに大空を飛翔する龍であり、トンボの一斉羽化は、飛翔する龍の姿だ」。

「「Dragonfly」、それは、トンボの一斉羽化を意味している」、と紹介。「なるほど」と思いました。

「自然共生田んぼ」では、除草剤を使わないので、6月から7月、毎週1回合計8回除草機で除草

朝6時前から除草機を押す除草中に、「赤とんぼ」の蛹が羽化する場面に遭遇します。命を感じるひと時、忘れられません。

外では今、コオロギが鳴いています。秋です。季節の移り変わりを知らせてくれる虫たち、大事にしたい。豊かな自然、大切にしたいです。

♪夕焼小焼の、赤とんぼ♪ とまっているよ、竿の先♪ 赤とんぼに感謝。

『自然に還れ、根本に還れ、精神に還れ』(安岡正篤:一日一言)

「生き方を考える上で、特に取り上げたいことは三つの点(三原則)です。その第一は自然に還れ、第二は根本に還れ、第三は精神に還れということです」。

「自然に還れ。産業でも人工的なものほど発達した産業と考えてきたが、これからはもっと自然を尊重すべきである。人工の都市の中に住むと人間がだめになる」。

「人間が発達し本当の文明を作り上げようとするならば、自然の理法に従わなければならない」。

「その次が根本に還れである。人間が発達させてきた文明が、現代になって、おそろしく枝葉末節に走ってきた。一つの花を咲かせ一つの実を成らせるようなことばかりに馳せてしまった。いわゆる抹消化である」。

「根本からだんだん離れてきた。抹消化が、移ろい易く滅び易いことはいうまでもない。花や実を本当に栄えさせるものは、実は根本を養うことである」。

「自然に還れ、根本に還れとなると、人間にとって何が一番自然であり根本であるか。それは結局精神である。心である。心の学問、精神の修養ということである」。

「近代文明をこのままにすると人間は心を失う、魂を失う。人工的になると本に還ることは難しい。どのように癒すかといえば、生活や飲食物そういう日常生活を自然に還らせる以外にない」。

「生命を根本に還らせる。最近、社会的犯罪などが多発している。これらを本当に解決しようとしたら文明、人間生活、民族、個人の生活を、少なくとも三原則に戻すことに努力するほかない」。

『自然に還れ、根本に還れ、精神に還れ』、何回読んでも身にしみます。群飛する「赤とんぼ」を見ると『自然に還れ、根本に還れ、精神に還れ』が浮かんできます。心にとどめたい箴言です。

2021-09-21

朝の散歩、論語に学ぶ

本日のクニオとの早朝散歩、菅原兵治記念館前の『論語』紹介掲示板。『先ず行う、其の言(ことば)は而(しか)る後に之(これ)に従(したが)う。』の箴言。「人の上に立つ人は、まず実行する、ことばはその後です」。なるほどと思います。朝の学びです。

鶴岡では、「少年少女論語素読教室」があり、小学4年生から中学3年生までが、論語を学びます。これは1968年から始まり半世紀以上も続いています。

我が家、次男以外4人の子供達は、この教室で論語を学びました。

夏休みは、1週間毎日、朝5時40分から40分間、致道博物館の「御隠殿」に正座し、論語を素読。私も子供達と一緒に論語を12年間、素読しました。早朝のひと時の素読、とても気持ちが良かったです。

また、私が住む松ヶ岡の小学4年生から中学3年生は「少年会」で毎月1回、論語の素読をします。

今から13年前、私が農学部長の時『「庄内論語一日一題カレンダー』を購入し、卒業式の贈り物として卒業生に贈ったことがあります。今も私の部屋にあり、毎日、学んでいます。味わい深い箴言。何度読んでも心に響きます。

評論家故伊藤肇氏は、著書『人間学』の中で「日本の経営者達が、最後の最後まで読み続ける本というと、『論語』が圧倒的である」と述べています。

そして、「「財界総理」と呼ばれた経団連会長の石坂泰三なども、夏、軽井沢へこもる時には、必ず『論語』を持って行ったし、よく、こんなことも言っていた」。

「50歳過ぎてから新しく読み直してみると味わいが深い。しかも平生の考え方、生き方にもぴたりと役に立つ。僕は齢80を超して初めて孔子とじっくり膝をまじえて話し合った」と紹介。

約2600年前に記された「論語」、今までも、今も、これからも、私達の生き方の指針として学ぶべき書に思います。

『三日書を読まざれば』(安岡正篤 一日一言)

「黄山谷(こうざんこく)に次のような名高い語があります。「士大夫三日書を読まざれば則(すなわち)理義胸中に交わらず。便(すなわち)覚ゆ、面目・憎むべく語言・味なきを」」。

「書は聖賢の書。理義は義理も同じで、理は事物の法則、義は行為を決定する道徳的法則であります」。

「大丈夫たるものは三日聖賢の書を読まないと、本当の人間的意味における哲理・哲学が身体に血となり肉となって循環しないから、面相が下品になって嫌になる、物を言っても言動が卑しくなったような気がする、というのであります」。

「本当の学問というものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくる。したがって、それを怠れば自ら面相・言動も卑しくなってくる」。

「それが本当の学問であり、東洋哲学の醍醐味もまた、そうゆうところにあるわけであります」。

『三日書を読まざれば』、何となく分かる気がします。「聖賢の書」の学び、重要に思います。

2021-09-19

映画鑑賞、日米の発想とスケールの違い

山形大で国際交流を担当していた時は、1年に数回、海外の大学との国際交流促進のため海外出張がありました。その時は、機内でたっぷり映画鑑賞。映画を観る機会に恵まれていました。

コロナ禍、海外に行く機会はなく、機内での映画鑑賞もありません。映画館に行くこともなく、映画鑑賞とは疎遠。

そんな8月中旬のある日、中2の次男が映画を観に行くと言う。どんな映画かと聞くと、米国映画、カー・アクション、『ワイルド・スピード/ジェットブレーク』とのこと。

どんな映画か全く想像きませんでしたが「夏休み、たまには映画でも観て来たら」と我が家の「外野席」からの声。さらに、アクション映画だと気分転換になるだろうと思い出陣。5年ぶり親子での映画鑑賞。

映画は、奇想天外のカー・アクション。スケールの大きさと想像を絶する話の展開。

この発想とスケールは、日本人にはないと感じました。日本人と米国人、何が違うのかとフト考えましたが、考えがまとまりません。文化の違いや異民族国家、国の広さや制作予算額等も影響しているのかとも思います。

そして、この映画は単なる賑やかなカー・アクションだけかと思ったら、最後は家族の温もりを感じる展開。第9作目とか。観客が多くシリーズになったのでしょう。分かる気がします。

昭和の時代、盆と正月には『男はつらいよ フーテンの寅次郎』を観て、「美しい女性に惚れた寅さんが、最後には振られる」、このワンパターンの筋書きに馴染んだ私。米国カー・アクション映画の展開が全く読めず、想定外の展開に面白さを感じました。

上映前に予告編があり、11月中旬にトムクルーズ主演『トップガン』の予告。夜8時、映画館を出る時、「11月は、トップガンを観に来るか」と次男に聞くと、二つ返事で「入れ食い」。

8時過ぎにお寿司屋さんで言葉少なにお寿司を食し、9時帰宅。久しぶりの親子映画鑑賞。これも第二の人生のなせる業?「夏休み」のノンビリしたひと時、映画鑑賞の良さを再認識です。

『親父の役割』(安岡正篤 一日一言)

「人間はやはり、良心・霊性・魂にひびかなければ、何事も真の解決は出来ないのであります」。

「然もそういう純な心はもう二つ三つの幼児の頃から、子供は本能的に鋭敏に受け取ることが出来る」。

「だから子供は言説で教えるよりも、情的に感じ取らせることの方が大事なのです。親父は千言万言を費やして説教するよりも、黙って子供に見せることであります」。

『親父の役割』、黙って子供に見せることであります。なるほどと感じます。 

2021-09-17

『父親のための人間学』、森信三先生

最近、「人間学」について考える機会があり、「人間学」に関する書籍をいくつか読みました。「人間学」の書名の本が、数多く出版されているのを発見。


その中の一冊が森信三先生著の『父親のための人間学』。私の年齢では、『爺さんのための人間学』が相応しいのかも知れません。

中学2年生の息子も含め5人の子供の父親として再読。新たな学び、多々発見です。

森先生は、『家庭教育の心得21:母親のための人間学』や『10代のための人間学』も著され、いずれの著書も味わい深く、人間学の本質を突いています。学びの書です。

本日は、『父親のための人間学』から、「森語録」を少し紹介します。森先生のお話や提言は、とても分かりやすいのが特徴です。問題は、それを実行できるかということに思います。

教育の原点として「躾の三原則」を紹介。

「1)朝の挨拶の必ずできる子にすること、2)呼ばれたら必ず「ハイ」と言える子にすること、3)ハキモノを脱いだら必ず揃え、立ったら必ず椅子を机にいれること」。この「必ず」に下線が引いてありました。

この教えは、とても単純ですが、とても重要。まず、親の率先垂範が必要に思います。

「教育とは人生の生き方の種まきをすることなり」。なるほどと思います。

「人間は一生のうちに、少なくとも三度偉人の伝記を読むべき時期があると思う」。

「第一は、小学校の5、6年から中学・高校にかけての時期である。第二は、30代の前半から後半にかけての時期。第3は60歳あたりから晩年にかけての時期である」。これから伝記を読み始めます。

「母親は、家長たる父親を立てずして家庭教育はありえない」。

「父親はいちいちこと細かに小言や叱りつけをすることは、賛成しがたく、これこそ父親軽視の種をまくようなものである」。

「家庭における父親の役割は、人生の見通しと社会的視野の広い立場に立った人生の生き方に基づき、家庭のあり方と子供の育て方の根幹と方向を明示すべき」。これもとても重要な教えです。

「父親の権威とは、人間的香気ともいえる人格と品位によって自ら発するものであります」。

「人間的香気」、善い言葉だと思います。「人間的香気」を発するようになりたいですが、これ簡単ではないです。

そして、「あるべき父親像」として、5点を紹介されています。

一.父親自身が確固たる人生観を持ち、柔軟にして強靱な信念の持ち主でなければならぬ。

一.父親はまず一事を通してわが子に忍耐力を育てる躾をすべきである。

一.父親は、平生は泰然として、あまり叱言をいうべきでない

一.父親は、イザという時、凜乎たる決断と俊敏な行動を示すものでなければならぬ。

一.父親自身が自らの「生活規律」を持ち、これを厳守するものでなければなるまい。

「あるべき父親像」、この5点、どれも重要な教えに思います。これからの人生、肝に銘じて生きます。

『多岐亡羊』(安岡正篤:一日一言)

「多岐亡羊ということがある。これは羊を飼っておった人が羊を逃がした。そこで慌てて追いかけた」。

「隣り近所の人も一緒になって追っかけてくれたが、あんまり枝道が多い。いわゆる多岐である。多岐が多くって、あっちへ行ったこっちへ行ったと言っているうちに、どこかに行っちまってわからなくなった」。

「人間もそういうもので、あんまり仕事が多くなると、肝腎なものがどこに行ってしまったかわからないようになる」。

「人間というものの本質、人間の使命、人間の幸福、そういったものがわからなくなってしまうのである」。

『多岐亡羊』、肝に銘じ、心して生活したいと思います。

2021-09-15

「人生は心一つの置きどころ」、天風会

「人生は、心一つの置きどころ」、中村天風先生の教えです。

「人間の心で行う思い方、考え方が、人生の一切を良くもし、悪くもする、というのが人生支配の根本原則である」。

「思い方や考え方が積極的であれば、積極的なものが出来、消極的なら消極的なものが出来る。何事においても、そのときの心の状態が、成功を生み、また失敗に追いやる」。

天風先生は、1876年(明治9年)に生まれ、43歳の1919年(大正8年)、独自の心身統一法を編み出し「天風会」を創設。

ヒマラヤ山中で8年間ヨガ哲学を修行し、「人間は誰でも、この世の進化と向上とを実現するために生まれてきたのだ。積極的な精神が人生を変え、運命を変える」との真理を導き出す。

この「天風会」には、日本海海戦の東郷平八郎元帥や真珠湾攻撃の山本五十六元帥、さらには元西武ライオンズの広岡達郎監督等々、多くの著名人も門下生。

私も7年前に庄内に創設された「天風哲学研究会」に5年間お世話になり、「天風哲学」を学習。この「研究会」は、2年前に「天風会仙台の会」へと発展的に解散。

今年度から「仙台の会」に入会し、毎月1回の「オンライン行修会&講習会」で「天風哲学」を学んでいます。今月9月の講習会のテーマは「神経反射の調整法基礎と応用」、朝9時から3時間の行修会と講習会。

これは日々の生活で怒りなどが生じたときの対処方法。具体的には天風先生が習得された「クンバハカ」の実施。

「怒りや腹が立ち、感情や感覚の刺激やショックを感じたら、すぐに肛門を締める。そして同時に下腹部の臍下丹田に力を充実させる、肩の力を抜いて肩を落とす」。

「これを、尻・腹・肩の三位一体として同時に行う。これにより、感情や感覚の刺激衝動が心に感じられても神経系統までには影響をおよぼさなくなる」。

この「行修会&講習会」に出席して、天風哲学の学び直しと日々の「クンバハカ」の実践を痛感しました。

1ヶ月に一度の「行修会&講習会」、なかなか良いです。天風先生に感謝。

『六然(りくぜん)』(安岡正篤 一日一言)

「自處超然(じしょちょうぜん:自ら処すること超然):人間は自分の問題となると、物にとらわれて執着したり、拘泥するものである。事に臨んで自分に関する問題から解脱し、抜け出せるように勉めることだ」。

「處人藹然(しょじんあいぜん:人に処すること藹然):人に対しては好意に満ち、温かい気分を持って対するのである。藹は草木の青々とした雰囲気をあらわす文字である」。

「有事斬然(ざんぜん):何か問題があるとき、うろうろしたり、うじうじせず、活気に満ちきびきびしている」。

「無事澄然(ちょうぜん):何もない時は、氷のように澄み切っている」。

「得意澹然(たんぜん):得意の時は威張ったり驕(おご)ったりし易いものであるが、人間はその時あっさりしていることが肝腎である。まだまだ足りないという謙虚さを抱くことだ」。

「失意泰然(たいぜん):失意の時は、ばたばたせずにゆったりと落ち着いている」。 

『六然』は、勝海舟の「座右の銘」とのこと。何回読んでも心に響きます。日々実行したいと思います。

2021-09-13

モテる、口説ける、仕切る『プレジデント』

世の中には、数多くの雑誌があり、廃刊になる雑誌があれば、新刊の雑誌もあります。山形学習センター(山形SC)では今、13冊の雑誌を定期購読中。

私は月刊誌を定期購読したことがあり、購読が長い月刊誌に『プレジデント』と『致知』があります。

前者は、今から40年前大学院の頃から30年位購読。しかし、月1回発行の月刊誌から月2回の発行となり、それと同時に内容が今一つ落ちたと感じ、購読を止めました。

山形SC学生控え室で今月の雑誌を見たら「モテる!口説ける!仕切れる!あなたの話がグングン面白くなる!」との表紙の『プレジデント』を発見。

今の私には「モテる!口説ける!仕切れる!」のテーマは、少し縁遠いですが、私は話が苦手で口下手なので「あなたの話がグングン面白くなる!」に誘われ購入。

特集の一つに「営業出身トップ直伝!」、「3名のトップに聞く営業の極意」がありました。

その見出しは「つまらない話に付き合っている暇はない。営業の売り込みの話ならば、なおさらだ。そこで、最初の“掴み”でお客様の心を握って離さない営業出身トップに、掴みの極意を伝授して貰おう」でした。

これまで、トップセールスで多くの方に放送大学を紹介。今後のセールスのために「営業の極意」を学びたく思います。

トップ3人共通意見は、「営業の話では、分かり易く平易な言葉を使う。専門用語は使わない」。なるほど、同感です。

3人の社長さんが色々な助言をされていました。その一部を紹介します。

「コミュニケーションは、受け手に権利があり、大切なことは相手にきちんと伝わること」。「お客様のことをまず真剣に考え、自分の思いを一つ一つの言葉に込める。熱意は相手に通じる」。

「ターゲットを決めたら、相手に関する情報をできる限り集め、入念に事前のリサーチをする」。

「話題の引き出しを豊富に用意しておく。さまざまなネタを振って、相手が何に関心があるのか、どんな悩みを抱えているのか探る。情報提供した際には、相手の目がパット光った瞬間を見逃さない」。同感、これも重要です。

「最も大事なのが「常に相手を立てる」、主役はあくまでもお客様」。

さすが営業上がりの社長さん、勉強になりました。

昨年4月から放送大学でお世話になり、これまで1年半に約50名の方にお会いし放送大学を紹介。

その方々は、副知事、市長、町長、教育長、小中学校の校長先生、病院長と看護婦長、大学の学長と事務部長、国際交流関係機関の職員等々でした。

放送大学の職業別学生数では、会社員が一番です。今までは、コロナ禍で経営が大変な企業も多いと思われ、企業巡りは避けていました。

コロナが一段落すると上述した方々や、さらに民間企業の社長さん及び専門学校の経営者の方々にもお会いし、放送大学を紹介する予定です。トップセールス重要です。

『プレジデント』の3名の社長さんの助言を参考に、良い出会いを楽しみたいと思います。社長さんに感謝。

『清新溌剌(せいしんはつらつ)』(安岡正篤 一日一言)

「人間の徳性の中で根本のものは、活々(いきいき)している、清新溌剌ということだ。いかなる場合にも、特に逆境・有事の時ほど活々していることが必要である」。

「その人に接すると自分までも気が爽やかになるという、これが人物の大事な要素だ。そして、かくのごとき人であれば必ず役立つ」。

「その人に接すると自分までも気が爽やかになる」、これは営業にも重要です。『清新溌剌』でありたいと思います。

2021-09-11

松ヶ岡の秋、蚕業稲荷神社の秋祭り

朝夕めっきり涼しくなり、一日一日と日が短くなってきました。外ではコオロギが鳴いています。秋です。

1960年代、昭和の島根の田舎、秋の思い出は、小中学校合同運動会と秋祭りの石見神楽。我が故郷では、小学校と中学校がすぐ近くで、ともに生徒数が少なく、合同運動会でした。

運動会は、小中学生がいる7部落の住民が総出で観戦。生徒は家族と一緒にご馳走のお弁当が食せるのが大きな楽しみ。娯楽が少なかった昭和30年代、運動会は地域の貴重な楽しみの一つでした。

さらに毎年秋の秋祭りと石見神楽、部落の一大行事。これも地域の楽しみの一つ。

お祭り当日は、本家の我が家に親戚が集まり夕方からお祝いの酒盛り。久しぶりに会う親族、四方山話に花が咲きます。酒盛りと四方山話にホノボノとした温かさを感じました。昭和の一コマです。

そして、午後10時頃から春日神社で神楽が奉納。神楽は夜通し舞われ、最後は朝5時からの「大蛇(おろち)」。懐かしいです。


松ヶ岡に移住して14年。松ヶ岡でも毎年秋祭りがあります。昨年はコロナ禍で中止。今年は、規模縮小し、神社と当屋宅での神事のみ。

松ヶ岡の秋祭りでは、前夜祭と本祭があります。このお祭りでは、本祭の前日に蚕業稲荷神社の神輿が当屋宅に運ばれ、神社及び当屋宅で神事が行われます。当屋とは、お祭りの神事や行事の主宰者となる家です。

この秋祭りは松ヶ岡の住民を9班に分け当屋組を作り、この当屋組が中心になって神事に対応します。

松ヶ岡に移住した3年目に我が家に当屋が回って来ました。移住して右も左も分からない時期でしたが、当屋組や関係者の皆さんのご指導とご協力で無事大役を終えました。

あれから10年、我が班が再び当屋組。月日の早さを感じます。10年前の当屋が懐かしい。

当屋組の仕事始めは、祭りに使う「しめ縄」綯(な)いから開始。ベテランからやり方を教えてもらいますが、縄にならない。縄綯い、簡単ではありません。貴重な経験でした。

そして、本祭前日の仕事、まずは打合せ

そして、神社の清掃や、祭りに向けて当屋宅での祭壇準備及び幕張等々。当屋組10年ぶりの共同作業、集落の皆さんと世間話をしながらの作業、色々と楽しみました。


また、作業の休憩時に松ヶ岡の長老からお祭りの由来や経過などを教授。

お祭りは、東北農家研修所の所長、菅原兵治先生が1968年(昭和43年)に提案されて始まり、当初は研修所の学生さんが御神輿を担いだとのこと。

お祭りでは宮司さんのお祓いは必須です。当屋組の方は、前夜祭及び本祭に神社や当屋宅で宮司さんからお祓いをしてもらいます。「家内安全、身体堅固、無病息災」等々、合計4回もお祓い。

これで向こう10年の人生は、順風満帆です。

当屋組、お祭りの作業や神事に2日間かかりつけでしたが、貴重で楽しいひと時でした。このような集落及び日本の伝統行事の継承は重要に思います。地域の皆さんとの共同作業、良いです。皆さんに感謝。

『因果の法則』(安岡正篤 一日一言)

「人間には奇跡というものはありません。奇跡などというのは研究不足、勉強不足の者の言葉でありまして、原因・結果というものは常にはっきりしておるのです」。

「悪いことをしますと、いつかは悪い結果があらわれ、善いことをすれば善い結果があらわれる、というのは厳粛な自然の法則であります」。

「したがって人間は因果律というものを大事にしなければなりません」。

『因果の法則』、当たっています。心にしっかり留めたいと思います。