「読書を通して古の聖賢を師とする」、これが「読書尚友」。吉田松陰の「士規七則」に記されているそうです。
「読書尚友は、人が歴史に通ぜず古の聖賢を師としなければ、つまらない人間になってしまう。読書を通じて古の聖賢を師とするのが君子のなすべきことだ、という教えである」。致知編集長の藤尾秀昭氏は、「特集 読書尚友」のリード文で、「読書尚友」を紹介しています。
この特集記事に、今年、98歳、九州大学名誉教授の井口潔氏と「博多の歴女」こと「ことほぎ代表」の白駒妃登美氏の「読書こそが人間教育の原点」の対談があります。そこでは、「素読を中心とする日本の伝統教育がいかに理に適ったものなのか、また読書は人格形成にどのような影響を与えるのか」が語り合われています。
素読は、とても重要に思います。日本初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士のテレビ番組を観ました。湯川先生は、「今の自分を作っているのは、子供の頃の四書五経の素読です。素読は、とても良かった」と、話されていました。
放送大学で10月から有志で始めた「致知を読み、楽しく人間学を学ぶ会」、第1回目の資料を準備しました。それが、「特集 読書尚友」の記事等です。しかし、メンバーの多くは、熱烈な致知の愛読者で、資料の準備は不用でした。
我が家では5人の子供のうち上4人は、それぞれ小学4年生から中学3年生までの6年間、鶴岡市の致道博物館内、御隠殿での「少年少女古典素読教室」に参加しました。
この教室では、6月1日から7月下旬まで毎週土曜日、朝9時から40分間、正座して論語の素読です。さらに、夏休みの7月下旬には一週間、朝5時40分から40分間の論語素読。これは50年前から続いているとのことです。
毎回、私は子供達を連れて参加しました。朝早く、正座して大きな声で論語を素読すると、とても気持ちよく、体調が良くなるのを感じます。素読後は、何時も爽やかな気分で帰宅しました。
素読では、論語の意味の説明はありません。ただ大声で論語を読むだけです。論語の素読、リズムがとても良く、気持ちが良いです。
論語の素読に参加したことで、フトした時に論語を思い出します。論語は、私の日常生活に良い影響を与えています。素読教室に感謝です。
『三日書を読まざれば』(安岡正篤 一日一言)
「「黄山谷(こうざんこく)に次のような名高い語があります。「士大夫三日書を読まざれば則(すなわち)理義胸中に交わらず。便(すなわち)覚ゆ、面目・憎むべく語言・味なきを」。書は聖賢の書。理義は義理も同じで、理は事物の法則、義は行為を決定する道徳的法則であります」。
「大丈夫たるものは三日聖賢の書を読まないと、本当の人間的意味における哲理・哲学が身体に血となり肉となって循環しないから、面相が下品になって嫌になる、物を言っても言動が卑しくなったような気がする、というのであります」。
「本当の学問というものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくる。したがって、それを怠れば自ら面相・言動も卑しくなってくる。それが本当の学問であり、東洋哲学の醍醐味もまた、そうゆうところにあるわけであります」。
「本当の学問を怠れば自ら面相・言動も卑しくなってくる」、実感します。聖賢の書を読む、重要に思います。
毎日、朝起きると安岡先生と平澤先生の「一日一言」を、それぞれ4頁読みます。この2つの書は常に私の鞄の中にあり、勤務先や家の机の上に置いています。それぞれの一日一言、一年365の箴言、何回読んでも、新たな発見があります。奥深さを感じます。