今、放送大学の授業、『グローバル時代の英語』を受講中。本日が通信指導(中間試験に相当)の答案提出締め切り日。この一週間、毎日、バスの中で「英語」を学びました。
主任講師が、5回目の授業で「英語の学びは、自分にとり何であるのか」と自問。それを聞いて、「私にとり英語の学びは何であったのか」と自問。本日は、「英語とその学びの思い出」について少し記します。
英語の学び初めは、皆さんと同じに中学校1年生。英語を学べることにワクワクした記憶あり。
しかし、2年生になり英語の先生は、生徒が宿題をやらないとの理由で授業をボイコット。先生は教室で、『日本文学全集』を読み、授業が終わると職員室に戻る。
この先生は、3年生の時に転勤しましたが、3年生の初めには2年生の教科書が半分も手付かず。英語落ちこぼれの始まり。
商船高専では、1年生の時に英語。しかし、専門科目の勉強が主で、英語は積極的に勉強せず。落ちこぼれ、その2。
商船高専の在学期間は、5年半で9月末卒業。卒業後は、大学で農学を学ぶことを決心。3月の大学入試まで5ヶ月間の受験期間で英語の力が付くとは思えず、英語は諦め。落ちこぼれ、その3。
運良く大学に入学。そして、必修科目として英語が出現。40名のクラスメイトは普通高出身で受験英語を叩き込まれている。ここでも落ちこぼれ。
大学院の受験を考え、英語とドイツ語が必須で辞書持ち込みなしを知る。大学4年生から文法書及び長文読解の参考書をそれぞれ1冊購入し英語を必死に学ぶ。大学院浪人も経験し、何とか希望の大学院に合格。
その研究室では、海外から研究者が訪問すると「Welcome Seminar(歓迎セミナー)」を開催し、発表者は無料で懇親会に出席。大学院の学生の発表は、必須の雰囲気あり。
入学してすぐに「Welcome Seminar」を知り、英会話学校に入学。修士1年の時に訪問者が来て、多くの学生は発表。指導教員からは、「お前、発表しないの」と「冷たいまなざし」。針の筵の1年目。
2年目の秋には、英会話学校の成果を少し感じ、「お前、また発表しないの」と「冷たいまなざし」の指導教員に「発表します」と告げたら、びっくりした教員「え、おお前大丈夫なの」の一言。
発表の構成を練り、練習していざ本番。ジョークも交え少し話せたと自己満足。初めての無料懇親会に出席。「冷たいまなざし」の指導教員が、「こいつ英語が話せるな」、とビックリした顔。ウフフでした。
しかし、英会話学校では、話す・聞くが主で、英語を書く訓練はなし。
修士2年間の研究の一部を英語の短報にまとめ、指導教員に校閲依頼。一日後、「お前の英語は酷い、高校生以下だ。高校の英語を徹底的に勉強しろ」と助言。
高校の英語を勉強しても英語が書けるとは思えず、私の研究分野で英語が母国語の優秀な研究者の英語論文の記述をメモし、それを覚えました。そして、それを使って英語の論文書き。
大学院1年から約25年間、鶴岡のNOVAが閉鎖されるまで英会話学校に通いました。
また、1997年に家族と一緒に約10ヶ月英国留学。研究しながら「Writing English in Science」との英語クラスに出席し3ヵ月鍛えられました。
先生がジョークを言い、学生がゲラゲラ笑う。私には何が可笑しいのか分からず頬が引きつり寂しい思い。
英語クラス修了時にIELTS(英語試験)を受験。これは、1(最低)から9(最高)の段階評価。大学留学の場合は、5.5以上の得点が必要。私は、お情けで6.0を頂戴。
山形大農学部に赴任後は、毎金曜日に学生さんと英語のミーティング。さらに欧米の研究者が私の研究室に滞在しての共同研究や多くの留学生の指導で、私も学生さんも英語が公用語のような環境。
私が大学生の時とは異なり、学生さんは流暢な英語で留学生や海外の研究者と英会話。
ある日「冷たいまなざし」の元指導教員から私に英語論文原稿が届き、手紙には「安田兄、論文へのコメントと英語校閲をお願いします」と記述。
私にとり英語は、研究者としての必修技能であり、多くの海外の研究者と共同研究を楽しめた「道具」。
英語を使わざるを得ない環境になり、必死に学べば、それなりには修得できるように思います。
本日は、英語落ちこぼれの「英語とその学びの思い出」を少し紹介しました。
『努力を習慣に』(平澤 興 一日一言)
「何が大切だと言っても、人生のできるだけ早い日に、この自主的努力を習慣的に身につけるほど大切なことはあるまい」。
「人生の勝負は普通考えられているようにただ頭脳のみの勝負ではなく、むしろ自主的努力を貫徹する意志と力と実行力にあるように思われる」。
「しくじりながら、これに教えられて突進するようになれば、もはやいわゆる失敗などというものはなく、失敗そのものさえが建設への手助けとなる」。
『努力を習慣に』、重要に思います。