我がブログ、2020年7月28日から開始し、足かけ5年。これまで4回母の日について記す機会あり。しかし、今まで688回のブログで「母の日」の記述はなし。本日は、初めて「母の日」について少し記します。
母の日は5月第2日曜日。ネットによると「約100年前の米国・ウェストヴァージニアで、ある女性が亡き母を追悼するため、1908年5月10日に教会で白いカーネーションを配ったのが始まり」とか。
日本で初めての母の日イベントは明治末期頃。1915年(大正4年)には教会でお祝いの行事が催されるようになり、徐々に民間に広まったとのこと。
4世代同居の我が家、義母、我が家内、娘の3人の母が同居。義母は、大東亜戦争を経験し、我が家内は昭和の元気な時代を過ごす。そして娘は平成の一桁と生活した時代は異なる。
しかし、母親として子育ての基本、「子を思う母の気持ち」は、今までも、今も、これからも変わらないと思う。そして、子供が母親に対する思いも時代による変化はないと感じる。
母親は、子供に取り必要な存在で、母親に取っても子供は重要な存在。
フト我が母を思い出す。母は、10年前に88歳で他界。戦争真っ只中が青春時代。気の毒で大変な時代。旧満州で育ち、日本に引き揚げ。黒竜江省で生活していたとのこと。生前に一緒に訪問したく思ったが、叶わぬ夢。
保健婦として仕事し、帰宅すれば夜遅くまで家事。そして、朝早くから家事をして出勤。仕事が趣味の母。日曜日午後2時から「松竹新喜劇」の藤山寛美を涙を流して鑑賞し、それを見ながらの昼寝を思い出す。
私は小学6年生の時、朝7時から夕方5時まで故郷の邑智郡一周サイクリング。商船高専2年の春、島根・広島・四国一周サイクリング。さらに商船高専3年の春、島根から青森までのサイクリングを行った。
いずれも「行ってきなさい」と気持ちよく送ってくれた。さらに商船高専、大学、大学院での学びに関しても「やりたいことを遣りなさい」と背中を押してくれた母。子供を一途に信頼して育ててくれたように思う。
両親が共稼ぎで物質的には恵まれてはいなかったが、温かい家庭と楽しい子供時代。それを支えてくれたのが母に思う。「親孝行、したいときには親はなし」。
鹿児島県知覧にある特別攻撃隊知覧平和記念館での館長講演をフト思い出す。特攻隊員は、父親より母親への思いが強いことを紹介。何となく分かる気がする。
我が家での母の日昼食会。三女が、特別料理を作り、長女が、お花をプレゼント。質素だが楽しい母の日昼食会。
『日本の母へ』(平澤興 一日一言)
「母よ 尊い母よ 日本の子らに 美しく逞しい魂を」
「世界の子らに 誇らしく清らかな心を 偉大な母よ」
「これは全家研(全日本家庭教育研究会)のスタートにあたって、私が日本の母に呼びかけた母への祈りである」。
「しかし、同時にこれは、母自身のこどもに対する祈りでもあろうと思うのです」。
『日本の母へ』、心に残る教え。