GWの後半、天気に恵まれ遅れている我が家の農作業が進む。と言っても草刈りと果樹の枝切り。これらの合間に少し、「書」等を読む日々。マイペースでゆったりとした時間を楽しむ。有り難い。
『致知』を教材にした自己研修会の「敬愛塾」が5月中旬に開催され今、予習中。本日は、その教材の一つ『致知3月号』の藤尾社長のリード文「特集 丹田常充実」を少し紹介します。元気をもらったリード文。
「丹田とは臍(へそ)の下三寸(10センチ)あたりの下腹部を指す。ここに力を入れると健康と勇気を得るといわれる」。
「「丹田常充実」とは、生きていく上で丹田が常に充実し力に満たされていることが大事、ということを教えている言葉である」と、リード文は「丹田常充実」の説明で始まる。
そして、「「丹田常充実」とは文字通り、いつも丹田が充実しているということである。平たく言えば、いつも気合いが入っているということである」。
「人生は気合いである。気合いが入っていなければ何事もなし得ないのは自明の理。「丹田常充実」は、人が事を成す上での土台となるものである」と、日々の生活における「丹田常充実」の重要性を指摘する。
日々の生活での「丹田常充実」、実践したいと思う。
また、「百歳の時に30年分の仕事の材料を買い込んでいたという彫刻家・平櫛田中氏に、こういう言葉があると聞いた」と、平櫛氏の言葉を紹介する。
「実践実践また実践、挑戦挑戦また挑戦、修練修練また修練」
「やってやれないことはない、やらずにできるわけがない」
「今やらずしていつできる、わしがやらねばだれがやる」
平櫛氏のこの言葉は、これまでにも学ぶ機会があった。しかし、何回学んでも凄い教えに思う。
さらに、「永平寺古跡館の書に、こういう言葉がある」と、永平寺の書に触れる。
「70才にてお迎えあるときは、今留守と言え」。
「80才にてお迎えあるときは、まだまだ早いと言え」。
「90才にてお迎えあるときは、そう急がずともよいと言え」。
「100才にてお迎えあるときは、時期を見てこちらからボツボツ行くと言え」。
「作者は不明だが、丹田常充実の気概で人生と戦ってきた人でなければ、こういう言葉は残せないだろう」。
このように言って我が人生を生き切れたらよいと思う。
「いつも気合いが入っている、いつもファイトがある。私たちも常に丹田を充実させ、我が人生に挑んでいきたい」と述べ、リード文は終わる。
「丹田常充実」、肝に銘じ、実践して生活したく思う。貴重な学びのリード文、藤尾社長に感謝。
『運を高める』(安岡正篤 一日一言)
「人間は深い精神生活を持たなければ、本当の意味の形相・色相は養われない。結局、運というものは相に現われ、相がよくなれば運もよくなる。しかし運をよくしようと思えば、結局、心を養わなければならない」。
「心を養うということは学問をすることで、したがって、本当の学問をすれば人相もよくなり、運もよくなる。すべてがよくなる」。
「運も相も結局は学問にほかならないのである。学問・修養すれば自ずからよくなる。そこで昔から本当の学者聖賢は、相や運の大事なことは知っておるけれども、敢えてそれを説かなかった」。
『運を高める』、深い学びの教えに思う。肝に銘じたい。