2022-08-29

山形SC「学びのサロン」、今年度第3回開催

今年度の私の「サロン(ゼミ)」は、岩波ジュニア新書『農は過去と未来をつなぐ』(宇根豊著)がテキスト。8月27日に第3回、「4章 自給するのは食べものだけじゃない」を学びました。少し紹介します。

この章は、「なぜ「自給」という言葉が使われるのか」、「自給と自給率の大きな違い」、「国の食料自給率の見直し」、「自給とは何か」、「仕事の自給と自然の自給」、「自給の再評価」、「自然観の自給」、「自給とは引き受ける精神」から構成。

辞書には、「自給とは、必要な物資を、他に求めるのでなく、自力で獲得してまかなうこと」と記述。

まず、本章では、「昔の日本人は、田畑も含め自然との関係が深かく自給は当たり前だった。自給を壊したのは「買った方が安い」との経済システムと分業から始まった農業の仕事を外部発注した」ことに触れる。

そして、「自給率の低下は、「分業」の進展に起因。「分業」の目的は、安く生産するためで、これは多かった百姓を減らし農業以外の産業に労働力を供給。そして分業は国内外におよぶ」ことを紹介する。

さらに、「日本政府は国内外の分業を認めつつ何故今、自給率を上げようというのか」と述べ、それは、「食料安全保障」と、これ以上自給率が下がれば、さらに日本の農家が潰れるからだ」と指摘。

「農業の自給とは、仕事の自給、自然の自給、食の自給、文化の自給、愛情や風景の自給と一体である。農業とは食料を生産する産業だとの気持ちが強すぎ、農業がもたらす農業以外の生産を忘れている」という。

また、「産業は金にならない物は生産と認めないが、これは間違いである。百姓仕事は、自然も風景も情愛も生産している」と強調する。

それから、「現代の食料自給は、農産物の自給であり、百姓仕事や百姓暮らしの自給は、間口が広く奥行きが深い。耕運機により家畜の餌の自給が低下し、化学肥料で堆肥の自給が低下した」ことに触れる。

さらには、「一方、1990年代から自給が再び輝き始める。例えば、市民菜園、Uターン、農業への新規参入。自給は、農産物の自給にとどまらず、農業のあり方の問題も含む」ことを紹介。

「自給を大切にすることは、私達と自然との関係を守ること。その関係を仲立ちし、結びつける役割を百姓は担う」。

「自然観は、身の回りの自然との付き合い。ご飯を食べることは、田んぼの自然を守ること。農産物の自給は自然の自給と直結し、これは農の本質。生産費保障の計算には、農が自然を支えるコストが入ってない」。

「自給の精神とは、選択を拒み、引き受けることで成り立つ。自給とは、人間と自然との関係が切れていないことを指す。それには仕事の自給が不可欠である」こと等を指摘し、本章は終わる。

この章は、分かりにくい記述もあったが、「自給するのは食べものだけじゃない」が、何となく伝わって来ました。また、「自給」について色々と考えさせられました。

担当者の紹介後、本章に記されたことも含め、出席者で多面的な情報及び意見交換。この「サロン」は、参加者の多様な意見も学べ、刺激と学びのひとときです。参加者に感謝。

『陶冶(とうや)する』(安岡正篤 一日一言)

「最高の教育を受けた人間も、その後の自己陶冶を缺(か)いては、立派な人間には成り得ない。ごく劣悪な教育も、自己陶冶によっては、なお改善され得るものである。いかにも人間は陶冶次第です」。

「「陶」というのは、焼き物を造る、「冶」というのは、冶金の冶で、金属を精錬することであります」。

「土を粘(ね)り、焼いて、陶器を造る。鉄を鍛えて鉄器を造るようなもので、人間もやはり、焼きを入れ、鍛えるということをやらなければ、ものになりません。いくつになってもそうであります」。

『陶冶する』、「いくつになっても焼きを入れ、鍛える」、重要に思います。